2013年12月25日水曜日

大学の将来の楽天的予測

カーネギー審議会はこれとは対照的な未来図を示してみせる。カーネギー審議会の明るい予想(楽天的予測)によれば、未来は次のようなものになるという。

・(青年人口の減少にもかかわらず)在籍学生数はそれほど低下せず、せいぜい二五~四〇パーセソトどまりであり、成人学生や外国人学生が一八~二一歳人口の減少分を補充することになる。

・資源が入手し難くなり、授業料が上がっても、政府の援助は現状と変わらず続くと予想され、在籍学生数はそれほど減らないだろう。

・高等教育は上昇するGNPのうちの現行(一九八〇年時)のシェア(二・五パーセント)を維持するに十分な活力を持ち、学生援助はゆたかで、雇用状況は良好となり青年の大学進学を促進し、学生数は減るどころか、むしろ上昇する。

・量的拡張の終息は大学に質の向上に取り組むことを可能にし、教育、研究、サービスの向上のための時間と余裕を与えることになる。

・学生は質の高い教育を求めており、賢明な消費者であるから、良い大学や良い教育プログラムを選び、良い就職を見込まれる世代となる。

・政府は高等教育への内部介入には自制力を発揮するだろう。

・私学は強靭な力を持ち、政府も私学援助を高め、潰れるのは弱小な大学だけとなり、そのことがかえって高等教育全体を強化する結果になろう。

・大学はこの時期を二一世紀の必要性と挑戦に対する組織化と理念を打ち立てる時期として活用するだろう。

・新しいテクノロジーは古い教育方法の補充とはなっても、従来の大学教育に全面的にとって代わることはない。

・アメリカは全体として新しい活力を回復して上昇の波に乗り、高等教育はこの上昇運動の中心となる。

カーネギー審議会が描いてみせたこの明暗二つの未来は、現実にはどのような帰結になったのであろうか。どちらの予測が一年後の未来を射当てたのだろうか。私はこの問題に一九八〇年以来切実な関心を抱きつつアメリカ高等教育の流れを追跡してきた。一九八二年、八四~八五年、八八年、八九年の渡米の機会には、その結果を自分の眼でも観察してきた。この書物では、アメリカの大学がこの《冬の時代》にどのように対決してきたかをこれまでの観察と研究の結果をふまえて明らかにしていきたい。しかし一九八〇年代のアメリカ高等教育を語るためには、そのまえに大学という社会制度の成り立ちを、歴史と比較の視点からふりかえってみる必要がある。

2013年11月7日木曜日

インド人青年の精神の向上と団結力の強化

こうした状況の中で、ヒンドゥー・ナショナリズム運動は急激な拡大を遂げている。さらに、パキスタンとの軍事的な緊張状態は、九・一一テロ事件以降、急速に高まっている。このようなインドの現状をどのように見ればよいのか? 本書では、現代インドの動きを、現地での草の根レベルから明らかにしていくつもりである。インドの街の朝は実に騒々しい。早朝にもかかわらずヒンドゥーのお寺は大音響で宗教音楽を流し、さらにスピーカーを使い最大のボリュームでマントラを唱えている。車はクラクションを容赦なく鳴らし、オートリキシャーはけたたましいエンジン音をたて、野良犬は吠え、物売りは大声で何やら叫んでいる。すがすかしい朝とは程遠い。

そのような中、公園や空き地のようなオープンスペースでサフロン色の旗を立て、その旗の前で整列や行進をしている一見奇妙な集団がいる。それかRSSのシャーカーだ。RSSとはヒンディー語のRashtriya Swayamsevak Sangh(ラーシュトリーヤースワヤンセーワクーサング)の頭文字をとったもので、日本語では「民族奉仕団」と一般に表記される。インドはとにかく頭文字をとって略すのか好きな国である。新聞を読んでいても略表記のオンパレードで、その団体かどういう組織なのか理解するのに時間がかかる。政府機関もこのような略称で表記されることか多く、何の略なのかを理解するのか大変だ。しかも、それか英語の略であったりヒンディー語の略であったりとパラパラで、外国人の我々にとっては、逆にややこしいことか多い。RSSもその例に漏れず、頭文字をとった略式で表記されこう呼ばれている。

このRSSは一九二五年にへードゲーワールという人物によって設立された団体で、インド人青年の精神の向上と団結力の強化を目標として設立された。この団体はインド・パキスタンの分離独立の際に生じたヒンドゥー難民の救援活動を積極的に行なったことにより多くの支持を受け、急速にメンバーを増やした。その後、一時は非合法化されたものの、着実にメンバーを増やしつづけ、今ではRSSが設立したBJP(インド人民党)はインドの中央政界の与党にまでなった。現在の首相であるヴァジパイーや、現在の内相で次期首相候補の筆頭であるアドバーユーは、RSSか輩出した人物である。RSSの現代インドにおげる影響力は計り知れないほど大きい。

そのようなRSSの活動の中心と位置付げられるのが、シャーカーである。シャーカーというのはヒンディー語で「支部」を意味する語であるか、RSSでこの語を使う場合、地方組織や各地の事務所を指すのではなく、朝夕に行なわれる末端のトレーニングのことを指している。このシャーカーは、インド全土で三万か所以上もあるとされる。私は主に、序章で述べたアヨーディヤーと首都デリーにおいてこのシャーカーを調査してきた。では、まずこのシャーカーで、どのようなことを行なっているのかを、ざっと見てみよう。一回のシャーカーは、通常一時間ほどである。参加者はそれぞれ各地によって違うか、概ね二〇人から三〇人で構成される。また、多くのシャーカーでは年齢別にグループ分けをする。シャーカーの中心となるのは若者グループで、一〇代半ばから二〇代半ばの青年を中心としたメンバーで構成される。他にも六〇歳以上の老人で構成されるグループや、子供ばかりで構成されるグループもあり、青年グループとは若干異なるプログラムを行なっている。

参加者の中にはムッキヤーシクシャークと言われる教育係が一人とガタナーヤクと言われるグループリーダーが数名いる。シャーカーに参加するメンバーは原則として、カーキー色のシヨードパンツに白いシャツという制服を身に着けることになっている。シャーカーは、教育係の笛の合図と共に全員が整列し、サフロン色の旗を立てるところから始まる。この立てた旗に対して、参加者は、胸に手をあて、背筋をピンとのばし、一礼してRSSのメンバーであることの誓いを行なう。これは軍隊か国旗に向かって敬礼するのに似ており、とてもいかめしい印象を受ける。その後、「回れ右」「右向け右」などの号令に合わせて整列の練習をし、その整列した状態から行進の練習に移る。場所によっては、さらにランニングをするところもある。



2013年8月28日水曜日

人口流出を加速させただけの道路

一九七〇年代にはじめて沖縄にやってきたときのことだ。島を案内してくれた方から、「海中道路を渡って宮城島に行きませんか」と言われたときは、それはもうびっくりした。「海中道路」という言葉から、何やら海の中を潜っていくような未来都市を想像してわくわくしたものだ。ところが、行ってみたら何のことはない。海の中にできた堤防のようなもので、あのときほどガッカリしたことはなかった。全長四・七キロの海中道路ができたのは、日本に復帰する前年の七一年のことだ。目的は、ガルフ社が宮城島の手前にある平安座島に石油備蓄基地をつくるためである。海の中に道路をつくるのだから、きっと難工事だったに違いないと思っていたら、実際は遠浅の海岸を埋め立てただけだから、わずか一ヵ月ちょっとで完成したという。

平安座島や宮城島は、この海中道路を地元復興のシンボルにしようとしたようだが、金武湾の潮流が変化したり、原油流出事故によって海洋が汚染されたりで、結果的に漁場が失われただけで何も得るところはなかった。そのうえ、若い人たちは海中道路を通って本島に流れ、島はますます過疎になっていった。道路や橋をつくっても、離島や僻地の人口流出を防ぎえないことは、田中角栄の日本列島改造でも明らかだ。角栄は、冬になると雪に埋もれる越後を何とかしようと、人も羨むような立派な道路をつくって交通網を整備した。道路をよくすれば都会に出る必要もなく、また出稼ぎに行った人たちも戻ってくると考えたのだろう。

ところが期待に反して、住民はよくなった道路を利用してどんどん都会に出て行った。戻りやすくなっだのではなく、出やすくなったのであり、道路は人口流出を加速しただけであった。過去に、日本列島を改造すればするほど、逆に地方の過疎化が進むという矛盾がはっきりしていたにもかかわらず、沖縄は同じ間違いを繰り返してきたのである。たとえば瀬底島。かつては、目の前に本部半島が見えるのに、風が強くなると渡れない島だった。シマチャビ(離島苦)の最大の悩みは交通であり、橋さえできれば活気を取り戻し、若者も島にとどまるに違いない、と考えたあたりは全国の離島に共通していた。島の住民は行政に訴え、そして五七億円の費用をかけて、八五年に全長七六二メートルの瀬底大橋が完成した。

島は、これでシマチャビから解放されると歓喜したが、案に相違してわけのわからない観光客がやってきてはゴミを散らかした。ゴルフ場ができ、それが転売されてホテルになった。誰のものともわからない別荘ができ、夏にもなれば、海岸は夜ごと「子供に見せられない」ような場面が展開することとなった。橋ができても若者は戻らず、現在まで瀬底島の人口はほとんど変わっていない。離島苦の本当の問題は交通ではなく、仕事がないこと。これは〇五年に完成した古宇利大橋も同じだった。「台風などで交通手段が使えなくなると孤立化し、急病人が出たら生死に関わる。橋ができれば緊急車両の通行が可能になり、産業も活性化して、島を離れた人も戻ってくるはずだ」

古宇利島の住民全員の意志かどうかわからないが、太っ腹の行政はそれに応え、島の直径にほぼ等しい全長一九六〇メートルの橋をかけて沖縄本島と陸続きにした。絵はがきにもなったこの橋は、いまや観光名所になっている。ちなみにこの橋の総工費は二七〇億円。古宇利島の人口は三五〇人ほどだから、一人あたり実に七七〇〇万円余りがつぎ込まれたことになる。沖縄で巨大な離島架橋を次々と建設していった理由について、ある建設業者はこんなことを言った。「道路に予算を使うのがむずかしくなったため、巨大な橋の建設に力を入れはじめたのでしょう。一時は久高島にまで橋を架ける計画もあったそうです」この古宇利大橋ができて離島苦はどうなったのか。あるとき那覇から名護に向かう長距離バスに乗ったら、偶然にも古宇利島に帰るオジイがいたので、つい隣に座らせてもらった。

2013年7月5日金曜日

成長会計の計算

ソ連の経済成長をめぐる論争は話として面白いだけでなく、従来の傾向をそのまま将来の予測に当てはめることが、いかに危険であるかを示す格好の教訓である。それでは、現在の世界についても、おなじことがいえるだろうか。近年のアジア諸国と三〇年前のソ連との間には、一見、共通点がなさそうに見える。むしろ、共通点などまったくないというのが、妥当な見方だろう。たとえば、シンガポールに出張して豪華なホテルに泊まったビジネスマンには、ゴキブリが徘徊するモスクワのホテルとは、なんの共通点も思いつかないだろう。活気に満ちたアジア諸国の高度経済成長と、厳格な統制のもとに進められたソ連の工業化を、そもそも比較できるのだろうか。

しかし、両者の間には意外にも共通点がある。一九五〇年代のソ連がそうであったように、アジアの新興工業国の高度成長も、資源の総動員が最大の要因となっている。経済成長のうち、投入の急速な増加によって説明できる部分を除けば、残りはほとんどない。高度成長期のソ連がそうであったように、アジア諸国の経済成長も、効率性の上昇ではなく、労働、資本など投入の大幅な増加が原動力になっている。シンガポールのケースを考えてみよう。一九六六年から九〇年までのシンガポールの経済成長率はじつに年率八・五パーセントとなっており、アメリカの三倍である。一人当たり所得の伸びは同六・六パーセントであり、一〇年ごとにほぼ倍増していることになる。

こうした成長率の高さを見れば、奇跡といえなくもない。しかし、この奇跡は、ひらめきではなく、努力に基づいたものであることがわかる。シンガポールは資源の動員によって経済成長を達成しているのだ。スターリンが誇ったような資源の動員である。人口に占める雇用者の割合は、二七パーセントから五一パーセントに上昇している。労働者の教育水準は飛躍的に向上しておりヽ 一九六六年には労働者の半数以上が学校教育を受けていなかつたが、九〇年には三分の二が高卒以上である。さらに、物的資本に膨大な投資を行っており、投資率は一二パーセントから四〇パーセント余りに上昇している。

成長会計の計算をするまでもなく、こうした数字から、シンガポールの経済成長が一回かぎりの行動様式の変化によるものであることが、はっきりとわかる。ここ三〇年の間に、人口に占める雇用者の割合はほぼ倍増している。これから、さらに倍増することはありえない。三〇年前には学校教育を受けた労働者が半数以下であったが、いまでは大多数が高卒以上である。しかし、いまから三〇年後に、労働者の大半が博士号をもつようになることは、ありそうもない。さらに、四〇八-セントという投資率はどんな基準から見ても、きわめて高い。それが七〇パーセントになると考えるのは、馬鹿げている。このように、シンガポールが今後も従来どおりの成長率を続けることがありえないのは、一目瞭然である。

しかし、実際に成長会計の計算をしてみると、意外な結果があらわれる。シンガポールの経済成長は、測定できる投入の増加によってすべて説明できるのだ。効率性が向上していることを示すものはなにもない。この点で、リー・クアンユー時代のシンガポール経済とスターリン時代のソ連経済とは、双子のようによく似ている。どちらも、資源の動員のみによって経済成長を達成しているのだ。いうまでもなく、現在のシンガポールはソ連のどの時代よりも(最盛期のブレジネフ時代よりも)、はるかに豊かである。これは、シンガボールの効率性がいまだに先進国を下回っているものの、かつてのソ連とくらべれば、先進国に近いからである。むしろ重要なのは、シンガポール経済がつねに、比較的効率性が高かったことだ。シンガポールではつねに資本や、教育を受けた労働者が不足していた。



ソ連の統計に問題があった

それでは、現在の先進国ではなぜ、過去一五〇年間にわたって一人当たり所得が増加しつづけることができたのだろうか。それは、技術の進歩によって、全要素生産性が上昇しつづけているからである。つまり、投入一単位当たりの国民所得が、増加しつづけているからだ。この点については、マサチューセッツ工科大学のロバートーソロー教授の推計がよく知られている。それによると、アメリカの一人当たり所得の長期的な伸びのうち、八〇パーセントは技術の進歩によるものであり、投入資本の増加によるものは二〇パーセントにすぎない。

経済学者はソ連の経済成長を研究するにあたって、成長会計の手法を使った。ソ連の統計に問題があったことはいうまでもない。投入と産出に関する推計を集め、こうした断片的な情報を継ぎ合わせるだけでもたいへんな作業であったが(エール大学のレイモンドーパウェル教授は「多くの点で遺跡の発掘作業に似ている」と書いている)、もうひとつ、概念上の問題があった。社会主義経済では、市場収益から投入資本を推計することが不可能に近かった。そこで、研究ではやむをえず、経済の発展段階が同程度の資本主義国の収益に基づいて、社会主義国の収益を想定した。

こうした問題はあったものの、研究を始めるにあたって、どんな結果が出るか、かなりの確信があった。資本主義国の経済成長は投入の増加と効率性の向上の両面に基づいたものであり、一人当たり所得の増加の最大の要因は効率性の上昇である。おなじように、ソ連の経済成長も投入の急速な増加と効率性の急速な向上によるものだという結果が出るものと、研究者たちは予想していた。しかし、予想はみごとに裏切られた。ソ連の経済成長は、投入の急速な増加のみによるものであることがわかったのだ。効率性の伸び率は低く、西側諸国をはるかに下回っていた。効率性の伸びが事実上なかったことを示す推計もあったほどだ。

ソ連が経済資源の総動員態勢をとっていることは、はじめからわかっていた。スターリン主義の計画経済では、大量の労働者が農村から都市に移住させられ、女性が労働力としてかり出され、男性の労働時間が延長され、教育制度が大幅に拡充された。さらに、もっとも重要な点として、工業生産のうち新規の工場建設に充てられる部分の比率が一貫して上昇していた。しかし、これはすでにわかっていたことである。研究者にとって意外だったのは、程度の差こそあれ測定できる投入の影響をすべて考慮すると、成長率のうち、これらの要因によって説明できない部分が残っていなかったことである。ソ連の経済成長がこれほどすっきりと説明がつくとは、思いもよらなかったのだ。

経済成長がほぼすべて投入の増加によって説明できる点から、重要な結論を二つ導くことができた。第一に、計画経済が市場経済よりも優れているという主張は、誤解に基づいていることがわかった。ソ連経済に特別な力があるとすれば、それは、資源を動員する能力であり、資源を効率的に利用する能力ではない。一九六〇年当時、ソ連の効率性がアメリカよりもはるかに低かったことは、だれの目にも明らかだ。しかし、このギャップが縮まる兆しすら見えなかったことは意外である。第二に、投入主導型の成長にはおのずと限界があり、ソ連経済が減速することはほぼ確実だった。ソ連経済の減速が明らかになるはるか以前に、成長会計でそれが予測されていた(ソ連経済が三〇年後に崩壊することになるとは、経済学者も予測していなかったが、これはまったく別の問題である)。

ソ連経済はなぜ減速したのか

これらの論調を代表するものとして、カルビン・B・フーバーの一九五七年の論文がある。西側の経済学者の多くがそうしたように、フーバーも、ソ連の政府統計は成長率を過大評価していると批判している。しかし、結論としては、ソ連の成長率がかなり高いことを認めており、「どの期間をとっても主要な資本主義国の二倍であり、アメリカの年平均成長率の三倍である」としている。さらに、経済成長を達成するうえでは、市場経済システムに基づく民主主義国家より「一党独裁制に基づく全体主義国家Lの方が本質的に優れている可能性があるとしており、七〇年代はじめには、ソ連が経済力でアメリカを追い抜くと予測している。

こうした見方は、当時としては珍しいものではなく、むしろ、あたりまえのことと受け止められていた。ソ連の計画経済は非人間的な制度であり、消費財を供給するうえでは問題もあるが、経済成長を促進するうえでは有効であるというのが、一般的な見方であった。ワシリー・レオンチェフは一九六〇年の論文で、ソ連経済は「冷徹で揺るぎない方針に沿って運営されている」と述べている。レオンチェフが根拠を示すことなくこのような見解を表明したのは、読者もおなじ見方であるという確信があったからだ。しかし、ソ連の経済成長を研究する経済学者の多くは、やがて、まったく違う結論に行き着いた。ソ連経済が実際に急成長をとげていることについては、異論はなかったが、成長の性格について新しい解釈を示し、ソ連の成長見通しを見直す必要があると主張した。こうした新解釈を理解するには、少し回り道をして、成長会計に関する理論を見てみる必要がある。成長会計というと、一見、難解そうだが、実はごく常識的なことである。

経済成長は、二つの源泉による成長の和と考えることができる。ひとつは、「投入」の増加である。雇用の増加、労働者の教育水準の向上、物的資本(機械設備、建物、道路など)のストックの増加だ。もうひとつは、投入一単位当たりの産出の増加である。これは、経済運営や経済政策の改善による場合もあるが、長期的に見れば、知識の蓄積によるところが大きい。成長会計の基本となる考え方は、この二つについて明確な指標の数値を算出し、この単純な公式の内容を豊かにしていくことである。その結果、経済成長率のうち、どこまでがどの投入要素(投資、労働など)の増加によるものか、どこまでが効率性の向上によるものかを知ることができる。

労働生産性を話題にする場合にはだれでも、成長会計の初歩を利用している。つまり、経済成長のうち、労働力供給の増加に起因する部分と、労働者が生産する財の平均価値の増加に起因する部分を、暗黙のうちに区別している。もっとも、労働生産性の伸びはかならずしも、労働者の効率性の向上によるとはかぎらない。労働は投入の一要素にすぎない。労働者の生産の増加が、管理の改善や技術知識の向上によるのではなく、設備の向上によってもたらされる場合もある。たとえば、建設機械を使えばシャベルを使うより速く穴を掘れるが、これは労働者の効率性が向上したためではない。労働者が使える設備資本が増加したからである。成長会計のねらいは、測定できるかぎりの投入要素をひとまとめにして指標をつくり、経済成長率とこの指標の伸び率を比較し、経済の効率性、経済学の用語を使えば「全要素生産性」を推計することである。

このように説明すると、まったく学問的な話に聞こえるかもしれない。しかし、成長会計の視点から経済成長のプロセスを考えれば、すぐに重要な点に気がつくはずである。ある国の一人当たり所得が長期にわたって伸びつづけるとすれば、それは、投入一単位当たりの産出が増加している場合以外にはありえない、という点である。投入が増加しても、その利用効率が向上しなければ(機械設備やインフラストラクチャーへの投資の効率が向上しなければ)、いずれ収益が逓減することは避けられない。投入主導型の成長には、おのずと限界がある。



ソ連の工業力の拡大

こうした分析結果から、二つ重要なことがいえる。第一に、共産主義体制の方が優れているという考え方は、ほとんど根拠をもたない。共産主義体制の一部を取り入れれば、西側も簡単に経済成長を加速できるとする通説は、たしかな根拠に基づいたものではない。東側の急速な経済成長は、ひとつの要因ですべて説明できる。いまの消費を犠牲にして将来の生産にまわす節約精神である。共産主義国の例は、楽をして急成長を達成できるわけではないことを示している。第二に、共産主義国の経済成長には限界がある。したがって、従来の成長率をそのまま将来に当てはめて考えると、現実的な見通しとはかけ離れたものになる可能性が高い。投入一単位当たり生産の増加ではなく、投入そのものの増加に基づく経済成長では、いずれ収益が逓減するのは目に見えている。

ソ連が従来どおりのペースで就業率を引き上げ、教育水準を向上させ、物的資本ストックを拡大しつづけることはありえない。共産主義国の成長率が減速すること、しかも、おそらく大幅に減速することは、はじめから予測できた。現在、アジア諸国の急速な経済成長が識者の注目を集めているが、これと一九五〇年代の共産主義国の高度成長の間に、共通点があるだろうか。もちろん、一見、共通点はなさそうだ。九〇年代のシンガポールと五〇年代のソ連には、共通点がないように見える。リー・クアンユー前首相はフルシチョフとは似ていないし、ましてスターリンとは似ても似つかない。

しかし、ソ連の経済成長をめぐる大論争をおぼえている人なら、アジア諸国の経済成長の要因に関する最近の研究結果を見て、なつかしいという感覚にとらわれるに違いない。いずれの場合も、俗説と現実的な見通し、つまぴ常識とたしかな数字とが大きく違っているために、まともな経済分析の結果がまったく無視され、たとえ公表しても、的外れの議論として片付けられることが多い。過熱気味のアジアーブームには、水を差す必要がある。アジアの急成長は、一般にいわれるほど先進国にとって参考になる面はなく、今後の成長率は予想されているほど高くはならないと見られる。

しかし、このように通説に異議を唱えるとかならず、先入観の壁にぶつかる。そこで、小論の冒頭で、ソ連の経済成長をめぐる三〇年前の論争を例に引き、過去の過ちを繰り返す恐れがあると指摘した。以前にも、似たような問題があったのだ。しかし、当時、ソ連の経済成長が西側にとってどれほど驚異的なものであり、どれほど大きな脅威と映ったかをおぼえている人がほとんどいないのでは、話にならない。そこで、アジアの急成長について触れる前に、うすれた記憶を呼び覚まし、経済史の重要な一こまを振り返ってみることにしよう。

社会主義体制が崩壊した現在では、ソ連の経済といえば、社会主義の失敗との関連でしか話題にならないので、その成長が世界の驚異の的になっていた時代があったといわれても、にわかには信じられない人がほとんどである。当時、フルシチョフ首相は国連総会で靴で机をたたいて「お前たちを葬ってやる」と叫んだ。これは、軍事力より経済力に対する自信から出た言葉である。こうした歴史上の事実がほとんど忘れ去られている現在では意外なことに思えるが、たとえば、一九五〇年代中ごろから六〇年代はじめにかけてのフオーリンーアフェアしス誌を見ていくと、ソ連の工業力の拡大が西側にあたえる影響を取り上げた論文が、少なくとも年にひとつは見つかる。

2013年3月30日土曜日

駆け出し時代のこと

ニコンS2はフィルムをレバーで巻き上げる新しい方式を取り入れていて、これを持っていた学生はさかんに速写を自慢していましたが、これに対抗してライカ派は、右手人さし指の横腹で巻き上げノブを、ワンストロークで手前に引くことで速さを競っていました。ライカを買うためのお金は、東京・中野の写真屋さんに住み込みで働いて得たものでした。学校から帰って夕食をすますと暗室に入り、親父さんが露光した印画紙を現像するのです。写真館は中野駅近くの繁華街にあり、昼間そこで撮影したフィルムを親父さんが写真館とは別にあった近くの自宅に持ち帰って現像し、それを夜、プリントするのです。定着の終わった印画紙は、暗室が狭いため、風呂場で水洗をしなければなりませんでした。

若いお嬢さんが三人いて、誰かが入浴中のときは外から声をかけます。風呂場も狭いので湯船に漬かってもらい、「いいわよ」と許可が出たところで、目を伏せたまま印画紙の入ったバットを持って中に入り、水洗をセットします。それが終わると同じ目線のままで外に出ます。とても気持ちのよい明るい家庭で、ご飯もお腹いっぱい食べさせてくれました。いちばん下の娘さんはまだ中学生でしたが、当時でいうファニーフェイスの可愛い顔つきで、やっと手に入れたライカⅢaのエルマーの標準レンズで何回もモデルになってもらいました。

大学生になった昭和三十一年は。、前年の神武景気のさらに上をゆく高天原景気、経済白書が「もはや戦後ではない」と宣言した年でしたが、就職の年はナベ底不況が音もなく近づいていた頃で、近年いわれる就職氷河期とそっくりの状況でした。運よく出版社に就職が決まり、昭和三十三年からスタッフカメラマンの第一歩を踏み出したわけですが、驚いたことに、会社には大判の6×6の共用カメラはあったものの、35ミリカメラは自前でした。いくら見習い期間とはいえ、二十年以上前のライカmaでは雑誌の仕事をする記は機動力がなさすぎ、さすがに途方にくれたものです。

部長はニコンSPを使っていたし、先輩の一人はキヤノンvTを持っていましたが、これも自前だといいます。部長が留守のときに先輩と部長のロッカーからニコンSPを持ち出し、二人でファインダーをのぞいたり、レンズ交換をしたり、撫で回したりしたものです。手に伝わってくる金属の感触や、心地よい重量感、特にスローシャッターの走る音をカメラに耳をつけて聞いていると、鳥肌が立ってきたものでした。

初任給は一万二千円。ニコンSPは50ミリ標準レンズつきで定価九万八千円。給料の八倍以上でした。見かねた部長が会社とかけ合うてお金を借りてくれ、月々三千円の月賦でニコンSPを手に入れたときは、有頂天になったものです。いちばん嬉しかったのは、ファインダーは近距離から無限大まで、写る範囲を誤差なく示し、巻き上げレバーによる速写、クランクでの迅速な巻き戻し、フィルム交換も簡単、そして何よりシャッター音の小さかったことでした。

当時のカメラのシャッター音は一般にとても大きく、取材先の作家から「鉄砲で撃たれてるような気持ちだよ」といわれたことがあったほどです。街でスナップを撮っても、音が大きいので二枚目を切るときは、ほとんど気づかれてしまいます。SPのシャッター音は国産カメラの中ではもっとも小さく、これで写真を撮っていると、自分が透明人間に近づいたような気がしたものです。