2016年4月14日木曜日

国民に銃を向けた軍

表現のうえでどうのこうのではなく、誰が変えたのかを問題にしなければならない。国民に銃を向けた軍が変えたのである。その軍は政権を手放さない。一九九〇年五月二七日に行なわれた一院制の議会の選挙では、議員総数の八〇パーセント以上を国民民主連盟(NLD)が獲得したにもかかわらず、政権委譲は一三年もたった現在に至るまで行なわれていない。国会すら一度も招集されていない。明らかに軍は選挙結果に示された国民の総意に背を向けている。しかし、軍事政権のもとでは、言論・報道・政治活動の自由は極度に制限されており、国民は抗議の行動どころか不満の声をあげることすらできない。

NLDをはじめとする民主化勢力の活動を厳しく規制している軍事政権ではあるが、国際的なメンツもあるのだろう、時には手綱をゆるめる。例えば、アウンサンスーチーたち一部の指導者が外国メディアとの接触を許されることがある。接触の手段は主に電話インタビューである。許されると書いたのは、電話による国外からの接触が許可制だとの意味ではない。電話はボタンをプッシュすればかかる。しかし、往々にして、指導者たちの使う電話は、肝心な時に、妨害音が入ったり、ラインそのものが一時的に切断されたりする。うまくつながって会話が始まれば、それはアウンサンスーチーたちにとって得がたい機会となる。一九九〇年の選挙で国民から託された責任を果たそうとする民主化勢力のリーダーたちは、外国メディアに向かって国民の声を代弁しようと息せき切って語りかける。

そんな時、英語でBurmaを使うことは、彼ら、彼女らが置かれている立場をわかりやすく伝えることになる。ビルマの国民すべてがBurmaとMyanmarの使い分けを気にしているわけではない。英語など生涯に一度もしゃべらないビルマ国民だってたくさんいるだろう。民主化陣営の指導者たちがBURMAを使うのは、そのこと自体をいいつのるではなく、平気で国の呼称を変えてしまったことでもわかるように、国民の信任を受けていない政権が、今も私たちを支配しているのですよ、外国の人たちにもそのことをよく認識していただきたいとのメッセージとして受け取るのが妥当であろう。

2016年3月14日月曜日

モータリゼーションの胎動を感じる

一九五四年には、早川電機が一〇万円の一四インチテレビを売り出した。松下も翌年、同サイズのテレビを九万円を切る値段で対抗した。わが家では、その年にようやく電気洗濯機を買い込んだが、テレビまでは金は回らなかった。しかし、一九五六年になると、テレビの値段はとうとう六万円台になり、そのあたりで、爆発的に普及しはしめた。

わが家でも思い切って買った。初めて見た番組は、当時一番人気のあった喜劇俳優・榎本健一(エノケン)の舞台劇で、私はテレビの前で笑いころげた。一九六〇年の松下電器のテレビ生産台数は六六万台に達していたのである。

私はその次には必ずモータリゼーションの時代が来ると考えていた。しかし、一九六〇年の日本の乗用車の生産台数はわずかに一六万五〇九四台であった。そのうえ日本の道路はほとんど舗装されておらず道幅も狭く、そこを通過して、アメリカのように、労働者までが自動車で通勤するとは思われなかった。

そういう時代がはたして来るものやら来ないものやら、私は手あたり次第に自動車関係の文献を読み、考えあぐんだ末、ちょうど販売を始めたスバル三六〇を買いこんだ。乗ってみなければ分からないという、技術系の人間の通性からであった。

そしてハンドルを握ったとたん、私は自動車の魅力はテレビの比ではないと実感し、モータリゼーションの日は近いと確信した。私は近所の、アマチュアではあるがオートバイのレースによく出場する友人の協力を得て、あれこれの日本の乗用車に乗ってみた。

それはどれが、将来のフォードTやフォルクスワーゲンに相当する大衆車になるかという見当をつけるためであった。私は、いろいろなクルマを乗り比べるうちに、乗用車は鉄道やバスやオートバイのような、たんなる輸送手段ではなく、動く私の部屋なのだと痛感した。

2016年2月13日土曜日

非自民政権の解体

もっとも、連立与党の新生党党首の小沢一郎は既に以前から、細川の意向を聞いていた。小沢側近の平野貞夫は、四月四日に、小沢から、細川首相が辞めるといっており、その後継政権で必要となる、連立与党の政策合意文書、統一会派について考えをまとめるように言われている。

その後、平野は会見前日の七日に、細川のもとに赴き、退陣表明の発表文などについて協議している(平野貞夫「小沢一郎との二十年」)。細川がこの当時いかに小沢を頼りにしていたかが、こうした経緯からもわかるであろう。人によっては、これを細川内閣の二重権力構造と呼んだ。筆者が辞任の場面から書き始めたのも、これによって連立政権の権力構造の一端が浮かび上がるからである(以降の政権についてもこの叙述を踏襲する)。

その後、細川内閣の与党は分裂含みで推移する。ほどなく細川が代表を務める日本新党は武村が率いるさきがけとの統一会派を解消し、さきがけは閣外協力に転じる。この背景には、九四年度予算の越年編成、国民福祉税構想などをめぐり、ことごとく対立した武村との確執があった。

細川は辞任表明の二ヶ月前の二月、武村の官房長官更迭を含む内閣改造を考えたが、結局、与党の社会党、さきがけの賛成を得られずに頓挫する。他方、武村と同様に、村山富市社会党委員長も、政権運営が独断専行だとして、小沢一郎新生党代表幹事、市川雄一公明党書記長ヘの批判を強めていた。

細川内閣の与党の新生党(小沢一郎代表幹事)、社会党(村山富市委員長)、日本新党(細川護煕代表)、公明党(石田幸四郎委員長)、民社党(大内啓吾委員長)、さきがけ(武村正義代表)、社民連(江田五月代表)は、こうして、細川辞任を契機に新生党、公明党、民社党などと、社会、さきがけの二つのグループに事実上分裂する。

2016年1月16日土曜日

マレーシア・ブミプトラ政策下の権威主義

マレーシアは、アジアにおける典型的な複合人種社会である。ゴムとスズを主要産品とするモノカルチュア経済の生産と流通に直接たずさわり、また都市の商業部門で勢力を伸ばしたのは、外来の移住人種である華人、インド人であった。マレー人は、伝統的村落で稲作を中心とした自給的生活を維持していた。その結果、独立時点のマレーシアにおいて経済的力量を身につけていたのは、華人、インド人であり、先住民であるマレー人の経済的地位はいちじるしく低いものであった。

イスラム教の守護者スルタンを頂点とする、マレーの伝統的政治構造は独立後も守られた。イギリス植民地時代の官僚制度が継承され、イギリス人が独占していたこの官僚機構のなかに独立後参入して行政支配力をにぎったのは、マレー人エリートであった。経済力の中枢を掌握するのが移住人種であり、政治支配の中枢に位置するのがマレー人であるという構造のもとで、国民国家を形成し、国民経済を構築するという、複雑で微妙な課題を背負って出発したのが、マレーシアであった。

各人種の政治エリートの協調路線が独立後の政治の基本であり、統一マレー人国民組織(マラヤインド人会議(MIC)、マラヤ華人公会(MCA)の二者からなる「アライアンス」(了フヤ連合党)が、各人種の利害を「ファインーチューニッグ」微調整しながら、国家を運営するという「調整型」の政党政治システムがとられてきた。マレーシアの場合、その独立はさきにも記したように武力闘争によってではなく、イギリスの「禅譲」によって与えられた。それゆえ、独立闘争のにない手であるはずの軍部の権力と威信は、周辺諸国のそれに比べて弱いものであった。

マレーシアの政治支配の中枢に位置したのは、政治エリートであり、彼らが支配力をにぎる政党であった。とはいえ、アライアンスのそのまた中枢にいたのはマレー人の組織UMNOであり、これが官僚機構を掌握した。UMNOの地位が決定的に強化されたのは、一九六九年五月一三日の人種暴動以降のことであった。