2014年5月2日金曜日

目標の喪失と成長の鈍化

そうなったことが、私にはほんとうに信じられない。そうなるについては、たしかに国際環境も手伝っただろうが、明らかに日本人自身もずいぶん頑張ったのだ。このすばらしい成果を前にして、その恩恵にも十分浴しながら、「『豊かさ』の『実感』がない」などとうそぶいて、いとも簡単にそれをおとしめるような議論をする人を、論理ではなく感情の問題として、私はとうてい許せない。感情的な言い方で申し訳ないが、「けしがらぬ」と思う。

もっとも、何年か前、自分が日頃接する学生諸君が生まれたときには、東海道新幹線はすでに開通していたことにたまたま気づいて、私は愕然としたことがある。そうだ。彼らには敗戦直後のあの悲惨が、まったく記憶にないのだ。「豊かさ」を当然のこととして生まれ育つた彼らが、それを時にはおとしめたくなっても、あるいはやむを得ないのかもしれない。だが、あの悲惨の記憶を持つ世代(つまり、私と同世代)の人びとが、いとも簡単に「豊かさ」をおとしめるのは、とうてい許せない。しかも世には、そういう人びとがずいぶんいる。

何年か前、「最近は、アメリカ特集がさっぱり売れなくなった。以前はそうではなかっだのに」という話を、ある雑誌編集者から聞いたことがある。最近の大学生は、アメリカへの関心がすこぶる弱いと、大学で教えているある友人が言っていた。それらすべてが、私にはとうてい信じられないことである。

かつて映画館のスクリーン(あるいはテレビードラマ)で見て、そのすばらしさに圧倒された「アメリカンーウェイーオブーライフ」が、まさに「豊かさ」というものだった。その中心をなす商品(川勝平太氏の言う「物産複合」)は、車と、一連の家電製品(家庭電器製品)とである。

車と一連の家電製品とを中心とする「豊かさ」のライフスタイルは、二十世紀前半のアメリカに生まれ、当のアメリカでは、世紀半ばにほぼ完成したものと見られる。二十世紀後半は、それが、まず西ヨーロッパと日本とに伝わり、次いで全世界に広がった時期である。日本でそれを象徴するキーワードが、昭和三十年代の「三種の神器」(電気洗濯機・電気冷蔵庫・黒白テレビ)と、昭和四十年代の「3C」とであろう。