2014年5月23日金曜日

研究と評論

さてデイトキーパーを目差すジャーナリストにとっては科学的方法に基づく、客観的報道が第一の機能であった。しかしいかなる社会においても意見の主張、あるいは評論を欠いたジャーナリズムは、存在しないであろう。ゲイトキーパーを目差すジャーナリズムにおいても、客観的報道とともに評論は、欠くことのできない重要な分野を構成している。考えてみると、私自身今日まで研究と評論という二つの分野に足をかけて生きてきた。研究者の生活と評論家の生活とは、そもそも矛盾しないものなのだろうか。

私自身この問題を考えることになったのは、一九七五年六月、「東京新聞」などに掲載される論壇時評を、担当することになったときである。論壇時評とは、総合雑誌の主要な論文を取り上げる批評欄である。一口に月刊雑誌の批評欄といっても、月刊誌に掲載される論文の数は多い。それにこれらの論文の著者は親しい友人とまでいかなくても、互いに面識のある人が多い。学会の関係もある。そこで自然多くの評者は、できるだけ多くの論文をとりあげて多くの著者の顔を立て、同時に適当にこれらの論文をほめてお茶をにごすのが習慣になっていた。当然読者が読んで、おもしろい批評欄ができるわけがない。そのため私は論壇時評などはそれまでほとんど読んだことがなかった。

そこで論壇時評を始めるに当って私は第一に少なくとも論文の著者よりは、読者を大切にしようと思った。つまり著者や編集者に気がねした内輪ぼめの批評では、百万を単位に数えなければならない新聞の読者に、いかにも不公平だと思ったのである。そこで私はたとえば論壇時評には当時とり上げられたことのなかった、「文芸春秋」の論文を積極的にとりあげた。

その頃の「文芸春秋」は言論界のタブーになっていた問題を次々にとりあげて、部数も百万台に向って、どんどん伸びていた。私はまた週刊誌やサトウーサンペイ氏の漫画なども取り上げた。固い雑誌論文が、遠慮して明らかにしないような批評を、週刊誌やサトウ氏の漫画は、ズバリと述べている場合が多かったのである。また私は時評を書く前には、毎月必ず外国の雑誌をまとめて読み、日本の論壇が避けていた問題や視点も、とり入れることに努めた。

2014年5月2日金曜日

目標の喪失と成長の鈍化

そうなったことが、私にはほんとうに信じられない。そうなるについては、たしかに国際環境も手伝っただろうが、明らかに日本人自身もずいぶん頑張ったのだ。このすばらしい成果を前にして、その恩恵にも十分浴しながら、「『豊かさ』の『実感』がない」などとうそぶいて、いとも簡単にそれをおとしめるような議論をする人を、論理ではなく感情の問題として、私はとうてい許せない。感情的な言い方で申し訳ないが、「けしがらぬ」と思う。

もっとも、何年か前、自分が日頃接する学生諸君が生まれたときには、東海道新幹線はすでに開通していたことにたまたま気づいて、私は愕然としたことがある。そうだ。彼らには敗戦直後のあの悲惨が、まったく記憶にないのだ。「豊かさ」を当然のこととして生まれ育つた彼らが、それを時にはおとしめたくなっても、あるいはやむを得ないのかもしれない。だが、あの悲惨の記憶を持つ世代(つまり、私と同世代)の人びとが、いとも簡単に「豊かさ」をおとしめるのは、とうてい許せない。しかも世には、そういう人びとがずいぶんいる。

何年か前、「最近は、アメリカ特集がさっぱり売れなくなった。以前はそうではなかっだのに」という話を、ある雑誌編集者から聞いたことがある。最近の大学生は、アメリカへの関心がすこぶる弱いと、大学で教えているある友人が言っていた。それらすべてが、私にはとうてい信じられないことである。

かつて映画館のスクリーン(あるいはテレビードラマ)で見て、そのすばらしさに圧倒された「アメリカンーウェイーオブーライフ」が、まさに「豊かさ」というものだった。その中心をなす商品(川勝平太氏の言う「物産複合」)は、車と、一連の家電製品(家庭電器製品)とである。

車と一連の家電製品とを中心とする「豊かさ」のライフスタイルは、二十世紀前半のアメリカに生まれ、当のアメリカでは、世紀半ばにほぼ完成したものと見られる。二十世紀後半は、それが、まず西ヨーロッパと日本とに伝わり、次いで全世界に広がった時期である。日本でそれを象徴するキーワードが、昭和三十年代の「三種の神器」(電気洗濯機・電気冷蔵庫・黒白テレビ)と、昭和四十年代の「3C」とであろう。