ニコンS2はフィルムをレバーで巻き上げる新しい方式を取り入れていて、これを持っていた学生はさかんに速写を自慢していましたが、これに対抗してライカ派は、右手人さし指の横腹で巻き上げノブを、ワンストロークで手前に引くことで速さを競っていました。ライカを買うためのお金は、東京・中野の写真屋さんに住み込みで働いて得たものでした。学校から帰って夕食をすますと暗室に入り、親父さんが露光した印画紙を現像するのです。写真館は中野駅近くの繁華街にあり、昼間そこで撮影したフィルムを親父さんが写真館とは別にあった近くの自宅に持ち帰って現像し、それを夜、プリントするのです。定着の終わった印画紙は、暗室が狭いため、風呂場で水洗をしなければなりませんでした。
若いお嬢さんが三人いて、誰かが入浴中のときは外から声をかけます。風呂場も狭いので湯船に漬かってもらい、「いいわよ」と許可が出たところで、目を伏せたまま印画紙の入ったバットを持って中に入り、水洗をセットします。それが終わると同じ目線のままで外に出ます。とても気持ちのよい明るい家庭で、ご飯もお腹いっぱい食べさせてくれました。いちばん下の娘さんはまだ中学生でしたが、当時でいうファニーフェイスの可愛い顔つきで、やっと手に入れたライカⅢaのエルマーの標準レンズで何回もモデルになってもらいました。
大学生になった昭和三十一年は。、前年の神武景気のさらに上をゆく高天原景気、経済白書が「もはや戦後ではない」と宣言した年でしたが、就職の年はナベ底不況が音もなく近づいていた頃で、近年いわれる就職氷河期とそっくりの状況でした。運よく出版社に就職が決まり、昭和三十三年からスタッフカメラマンの第一歩を踏み出したわけですが、驚いたことに、会社には大判の6×6の共用カメラはあったものの、35ミリカメラは自前でした。いくら見習い期間とはいえ、二十年以上前のライカmaでは雑誌の仕事をする記は機動力がなさすぎ、さすがに途方にくれたものです。
部長はニコンSPを使っていたし、先輩の一人はキヤノンvTを持っていましたが、これも自前だといいます。部長が留守のときに先輩と部長のロッカーからニコンSPを持ち出し、二人でファインダーをのぞいたり、レンズ交換をしたり、撫で回したりしたものです。手に伝わってくる金属の感触や、心地よい重量感、特にスローシャッターの走る音をカメラに耳をつけて聞いていると、鳥肌が立ってきたものでした。
初任給は一万二千円。ニコンSPは50ミリ標準レンズつきで定価九万八千円。給料の八倍以上でした。見かねた部長が会社とかけ合うてお金を借りてくれ、月々三千円の月賦でニコンSPを手に入れたときは、有頂天になったものです。いちばん嬉しかったのは、ファインダーは近距離から無限大まで、写る範囲を誤差なく示し、巻き上げレバーによる速写、クランクでの迅速な巻き戻し、フィルム交換も簡単、そして何よりシャッター音の小さかったことでした。
当時のカメラのシャッター音は一般にとても大きく、取材先の作家から「鉄砲で撃たれてるような気持ちだよ」といわれたことがあったほどです。街でスナップを撮っても、音が大きいので二枚目を切るときは、ほとんど気づかれてしまいます。SPのシャッター音は国産カメラの中ではもっとも小さく、これで写真を撮っていると、自分が透明人間に近づいたような気がしたものです。
2012年12月25日火曜日
お産専門家の登場
けれども長い間につちかわれた人々の生命観や身体観、医療観、死生観および、それらすべてをひっくるめた宇宙観は人々の生きるすべての部分を支える思想として、人間のあらゆる細部にわたって組み込まれていたから、表面にあらわれる行動様式を、「迷信を信じるのは恥しい。人前では科学的態度をみせなくちゃあ」というふうに変えるだけでも長い時間を要した。
本章でも述べたように、「科学的な根拠」のある知識は、正しい知識としての正統性を与えられ、教科書を通してその考え方は全国津津浦浦へと伝達されたが、心のあり方・第六感・胸さわぎなど人々の行動にとって、強い影響力をもつ宇宙観と身体性との関わりは、残念ながらこの時から科学的な根拠のない迷信として否定されてしまった。さらに、学問が奨励されることにより、頭を使うことは尊いこと、身体を使うこと(体験)は卑しいことと徐々に二分され、体験もまたそれまでの輝きを失った。
お産がこれら身体観と同じように、その直撃を受けて変わらざるを得なくなったのは、医療や教育における変化が定着した明治末からで、その時期はちょうど、国の押し進める富国強兵の軍国主義政策が一直線に進み始めた時期でもあった。産婆の養成が急ピッチで進み、彼女たちの助産が人々に受け入れられるようになることによって、お産は、この時から基本的には国の認める助産方法やお産のあり方を学習した女性(産婆)や男性(産科医)に任せて指導してもらうものへと、方向転換したのである。
さらにそうしなければ、大変危険だとも考えられるようになった。学問的素養を持だない産婦や、産婦の身内のネットワークくらいでは、とても扱い切れない危険なものと感じられるようになったのである。つまり、現実には1 産の専門家たる産科医や産婆が、そばにいてもいなくても、産婦の身体の出産生理機構の働き具合いは少しも変わらないのに[陣痛が始まり、子宮]が開き、胎児が産道を通って産み出されるという生理的な進行状況は同じなのに)、「そばに厚門家がいなければ、お産はできない。危険なはずだ」という産婦のか産認識と、実際の出産の生理現象との間の乖離現象が始まったのである。
明治民法などの施行によって、国は強力に女性の権利や主体性を否定し、「良妻賢母たることが女の幸せ」というメ″セージを流し、女性の生き方を、性差別役割の中でも従属的な部分に、さらには母たる部分へと限定した時期であった。国は儒教思想や欧米の「ビクトリアンーウーマン」などと呼ばれた女性差別認識の中から、その時、国が必要とし、男性にさからわず、相手の要求通りに、相手に合わせて自分を変え、しかも国に尽くすことを是とした女性を理想の良妻賢母と説いた。
本章でも述べたように、「科学的な根拠」のある知識は、正しい知識としての正統性を与えられ、教科書を通してその考え方は全国津津浦浦へと伝達されたが、心のあり方・第六感・胸さわぎなど人々の行動にとって、強い影響力をもつ宇宙観と身体性との関わりは、残念ながらこの時から科学的な根拠のない迷信として否定されてしまった。さらに、学問が奨励されることにより、頭を使うことは尊いこと、身体を使うこと(体験)は卑しいことと徐々に二分され、体験もまたそれまでの輝きを失った。
お産がこれら身体観と同じように、その直撃を受けて変わらざるを得なくなったのは、医療や教育における変化が定着した明治末からで、その時期はちょうど、国の押し進める富国強兵の軍国主義政策が一直線に進み始めた時期でもあった。産婆の養成が急ピッチで進み、彼女たちの助産が人々に受け入れられるようになることによって、お産は、この時から基本的には国の認める助産方法やお産のあり方を学習した女性(産婆)や男性(産科医)に任せて指導してもらうものへと、方向転換したのである。
さらにそうしなければ、大変危険だとも考えられるようになった。学問的素養を持だない産婦や、産婦の身内のネットワークくらいでは、とても扱い切れない危険なものと感じられるようになったのである。つまり、現実には1 産の専門家たる産科医や産婆が、そばにいてもいなくても、産婦の身体の出産生理機構の働き具合いは少しも変わらないのに[陣痛が始まり、子宮]が開き、胎児が産道を通って産み出されるという生理的な進行状況は同じなのに)、「そばに厚門家がいなければ、お産はできない。危険なはずだ」という産婦のか産認識と、実際の出産の生理現象との間の乖離現象が始まったのである。
明治民法などの施行によって、国は強力に女性の権利や主体性を否定し、「良妻賢母たることが女の幸せ」というメ″セージを流し、女性の生き方を、性差別役割の中でも従属的な部分に、さらには母たる部分へと限定した時期であった。国は儒教思想や欧米の「ビクトリアンーウーマン」などと呼ばれた女性差別認識の中から、その時、国が必要とし、男性にさからわず、相手の要求通りに、相手に合わせて自分を変え、しかも国に尽くすことを是とした女性を理想の良妻賢母と説いた。
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