こうした状況の中で、ヒンドゥー・ナショナリズム運動は急激な拡大を遂げている。さらに、パキスタンとの軍事的な緊張状態は、九・一一テロ事件以降、急速に高まっている。このようなインドの現状をどのように見ればよいのか? 本書では、現代インドの動きを、現地での草の根レベルから明らかにしていくつもりである。インドの街の朝は実に騒々しい。早朝にもかかわらずヒンドゥーのお寺は大音響で宗教音楽を流し、さらにスピーカーを使い最大のボリュームでマントラを唱えている。車はクラクションを容赦なく鳴らし、オートリキシャーはけたたましいエンジン音をたて、野良犬は吠え、物売りは大声で何やら叫んでいる。すがすかしい朝とは程遠い。
そのような中、公園や空き地のようなオープンスペースでサフロン色の旗を立て、その旗の前で整列や行進をしている一見奇妙な集団がいる。それかRSSのシャーカーだ。RSSとはヒンディー語のRashtriya Swayamsevak Sangh(ラーシュトリーヤースワヤンセーワクーサング)の頭文字をとったもので、日本語では「民族奉仕団」と一般に表記される。インドはとにかく頭文字をとって略すのか好きな国である。新聞を読んでいても略表記のオンパレードで、その団体かどういう組織なのか理解するのに時間がかかる。政府機関もこのような略称で表記されることか多く、何の略なのかを理解するのか大変だ。しかも、それか英語の略であったりヒンディー語の略であったりとパラパラで、外国人の我々にとっては、逆にややこしいことか多い。RSSもその例に漏れず、頭文字をとった略式で表記されこう呼ばれている。
このRSSは一九二五年にへードゲーワールという人物によって設立された団体で、インド人青年の精神の向上と団結力の強化を目標として設立された。この団体はインド・パキスタンの分離独立の際に生じたヒンドゥー難民の救援活動を積極的に行なったことにより多くの支持を受け、急速にメンバーを増やした。その後、一時は非合法化されたものの、着実にメンバーを増やしつづけ、今ではRSSが設立したBJP(インド人民党)はインドの中央政界の与党にまでなった。現在の首相であるヴァジパイーや、現在の内相で次期首相候補の筆頭であるアドバーユーは、RSSか輩出した人物である。RSSの現代インドにおげる影響力は計り知れないほど大きい。
そのようなRSSの活動の中心と位置付げられるのが、シャーカーである。シャーカーというのはヒンディー語で「支部」を意味する語であるか、RSSでこの語を使う場合、地方組織や各地の事務所を指すのではなく、朝夕に行なわれる末端のトレーニングのことを指している。このシャーカーは、インド全土で三万か所以上もあるとされる。私は主に、序章で述べたアヨーディヤーと首都デリーにおいてこのシャーカーを調査してきた。では、まずこのシャーカーで、どのようなことを行なっているのかを、ざっと見てみよう。一回のシャーカーは、通常一時間ほどである。参加者はそれぞれ各地によって違うか、概ね二〇人から三〇人で構成される。また、多くのシャーカーでは年齢別にグループ分けをする。シャーカーの中心となるのは若者グループで、一〇代半ばから二〇代半ばの青年を中心としたメンバーで構成される。他にも六〇歳以上の老人で構成されるグループや、子供ばかりで構成されるグループもあり、青年グループとは若干異なるプログラムを行なっている。
参加者の中にはムッキヤーシクシャークと言われる教育係が一人とガタナーヤクと言われるグループリーダーが数名いる。シャーカーに参加するメンバーは原則として、カーキー色のシヨードパンツに白いシャツという制服を身に着けることになっている。シャーカーは、教育係の笛の合図と共に全員が整列し、サフロン色の旗を立てるところから始まる。この立てた旗に対して、参加者は、胸に手をあて、背筋をピンとのばし、一礼してRSSのメンバーであることの誓いを行なう。これは軍隊か国旗に向かって敬礼するのに似ており、とてもいかめしい印象を受ける。その後、「回れ右」「右向け右」などの号令に合わせて整列の練習をし、その整列した状態から行進の練習に移る。場所によっては、さらにランニングをするところもある。
2013年11月7日木曜日
2013年8月28日水曜日
人口流出を加速させただけの道路
一九七〇年代にはじめて沖縄にやってきたときのことだ。島を案内してくれた方から、「海中道路を渡って宮城島に行きませんか」と言われたときは、それはもうびっくりした。「海中道路」という言葉から、何やら海の中を潜っていくような未来都市を想像してわくわくしたものだ。ところが、行ってみたら何のことはない。海の中にできた堤防のようなもので、あのときほどガッカリしたことはなかった。全長四・七キロの海中道路ができたのは、日本に復帰する前年の七一年のことだ。目的は、ガルフ社が宮城島の手前にある平安座島に石油備蓄基地をつくるためである。海の中に道路をつくるのだから、きっと難工事だったに違いないと思っていたら、実際は遠浅の海岸を埋め立てただけだから、わずか一ヵ月ちょっとで完成したという。
平安座島や宮城島は、この海中道路を地元復興のシンボルにしようとしたようだが、金武湾の潮流が変化したり、原油流出事故によって海洋が汚染されたりで、結果的に漁場が失われただけで何も得るところはなかった。そのうえ、若い人たちは海中道路を通って本島に流れ、島はますます過疎になっていった。道路や橋をつくっても、離島や僻地の人口流出を防ぎえないことは、田中角栄の日本列島改造でも明らかだ。角栄は、冬になると雪に埋もれる越後を何とかしようと、人も羨むような立派な道路をつくって交通網を整備した。道路をよくすれば都会に出る必要もなく、また出稼ぎに行った人たちも戻ってくると考えたのだろう。
ところが期待に反して、住民はよくなった道路を利用してどんどん都会に出て行った。戻りやすくなっだのではなく、出やすくなったのであり、道路は人口流出を加速しただけであった。過去に、日本列島を改造すればするほど、逆に地方の過疎化が進むという矛盾がはっきりしていたにもかかわらず、沖縄は同じ間違いを繰り返してきたのである。たとえば瀬底島。かつては、目の前に本部半島が見えるのに、風が強くなると渡れない島だった。シマチャビ(離島苦)の最大の悩みは交通であり、橋さえできれば活気を取り戻し、若者も島にとどまるに違いない、と考えたあたりは全国の離島に共通していた。島の住民は行政に訴え、そして五七億円の費用をかけて、八五年に全長七六二メートルの瀬底大橋が完成した。
島は、これでシマチャビから解放されると歓喜したが、案に相違してわけのわからない観光客がやってきてはゴミを散らかした。ゴルフ場ができ、それが転売されてホテルになった。誰のものともわからない別荘ができ、夏にもなれば、海岸は夜ごと「子供に見せられない」ような場面が展開することとなった。橋ができても若者は戻らず、現在まで瀬底島の人口はほとんど変わっていない。離島苦の本当の問題は交通ではなく、仕事がないこと。これは〇五年に完成した古宇利大橋も同じだった。「台風などで交通手段が使えなくなると孤立化し、急病人が出たら生死に関わる。橋ができれば緊急車両の通行が可能になり、産業も活性化して、島を離れた人も戻ってくるはずだ」
古宇利島の住民全員の意志かどうかわからないが、太っ腹の行政はそれに応え、島の直径にほぼ等しい全長一九六〇メートルの橋をかけて沖縄本島と陸続きにした。絵はがきにもなったこの橋は、いまや観光名所になっている。ちなみにこの橋の総工費は二七〇億円。古宇利島の人口は三五〇人ほどだから、一人あたり実に七七〇〇万円余りがつぎ込まれたことになる。沖縄で巨大な離島架橋を次々と建設していった理由について、ある建設業者はこんなことを言った。「道路に予算を使うのがむずかしくなったため、巨大な橋の建設に力を入れはじめたのでしょう。一時は久高島にまで橋を架ける計画もあったそうです」この古宇利大橋ができて離島苦はどうなったのか。あるとき那覇から名護に向かう長距離バスに乗ったら、偶然にも古宇利島に帰るオジイがいたので、つい隣に座らせてもらった。
平安座島や宮城島は、この海中道路を地元復興のシンボルにしようとしたようだが、金武湾の潮流が変化したり、原油流出事故によって海洋が汚染されたりで、結果的に漁場が失われただけで何も得るところはなかった。そのうえ、若い人たちは海中道路を通って本島に流れ、島はますます過疎になっていった。道路や橋をつくっても、離島や僻地の人口流出を防ぎえないことは、田中角栄の日本列島改造でも明らかだ。角栄は、冬になると雪に埋もれる越後を何とかしようと、人も羨むような立派な道路をつくって交通網を整備した。道路をよくすれば都会に出る必要もなく、また出稼ぎに行った人たちも戻ってくると考えたのだろう。
ところが期待に反して、住民はよくなった道路を利用してどんどん都会に出て行った。戻りやすくなっだのではなく、出やすくなったのであり、道路は人口流出を加速しただけであった。過去に、日本列島を改造すればするほど、逆に地方の過疎化が進むという矛盾がはっきりしていたにもかかわらず、沖縄は同じ間違いを繰り返してきたのである。たとえば瀬底島。かつては、目の前に本部半島が見えるのに、風が強くなると渡れない島だった。シマチャビ(離島苦)の最大の悩みは交通であり、橋さえできれば活気を取り戻し、若者も島にとどまるに違いない、と考えたあたりは全国の離島に共通していた。島の住民は行政に訴え、そして五七億円の費用をかけて、八五年に全長七六二メートルの瀬底大橋が完成した。
島は、これでシマチャビから解放されると歓喜したが、案に相違してわけのわからない観光客がやってきてはゴミを散らかした。ゴルフ場ができ、それが転売されてホテルになった。誰のものともわからない別荘ができ、夏にもなれば、海岸は夜ごと「子供に見せられない」ような場面が展開することとなった。橋ができても若者は戻らず、現在まで瀬底島の人口はほとんど変わっていない。離島苦の本当の問題は交通ではなく、仕事がないこと。これは〇五年に完成した古宇利大橋も同じだった。「台風などで交通手段が使えなくなると孤立化し、急病人が出たら生死に関わる。橋ができれば緊急車両の通行が可能になり、産業も活性化して、島を離れた人も戻ってくるはずだ」
古宇利島の住民全員の意志かどうかわからないが、太っ腹の行政はそれに応え、島の直径にほぼ等しい全長一九六〇メートルの橋をかけて沖縄本島と陸続きにした。絵はがきにもなったこの橋は、いまや観光名所になっている。ちなみにこの橋の総工費は二七〇億円。古宇利島の人口は三五〇人ほどだから、一人あたり実に七七〇〇万円余りがつぎ込まれたことになる。沖縄で巨大な離島架橋を次々と建設していった理由について、ある建設業者はこんなことを言った。「道路に予算を使うのがむずかしくなったため、巨大な橋の建設に力を入れはじめたのでしょう。一時は久高島にまで橋を架ける計画もあったそうです」この古宇利大橋ができて離島苦はどうなったのか。あるとき那覇から名護に向かう長距離バスに乗ったら、偶然にも古宇利島に帰るオジイがいたので、つい隣に座らせてもらった。
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