2016年3月14日月曜日

モータリゼーションの胎動を感じる

一九五四年には、早川電機が一〇万円の一四インチテレビを売り出した。松下も翌年、同サイズのテレビを九万円を切る値段で対抗した。わが家では、その年にようやく電気洗濯機を買い込んだが、テレビまでは金は回らなかった。しかし、一九五六年になると、テレビの値段はとうとう六万円台になり、そのあたりで、爆発的に普及しはしめた。

わが家でも思い切って買った。初めて見た番組は、当時一番人気のあった喜劇俳優・榎本健一(エノケン)の舞台劇で、私はテレビの前で笑いころげた。一九六〇年の松下電器のテレビ生産台数は六六万台に達していたのである。

私はその次には必ずモータリゼーションの時代が来ると考えていた。しかし、一九六〇年の日本の乗用車の生産台数はわずかに一六万五〇九四台であった。そのうえ日本の道路はほとんど舗装されておらず道幅も狭く、そこを通過して、アメリカのように、労働者までが自動車で通勤するとは思われなかった。

そういう時代がはたして来るものやら来ないものやら、私は手あたり次第に自動車関係の文献を読み、考えあぐんだ末、ちょうど販売を始めたスバル三六〇を買いこんだ。乗ってみなければ分からないという、技術系の人間の通性からであった。

そしてハンドルを握ったとたん、私は自動車の魅力はテレビの比ではないと実感し、モータリゼーションの日は近いと確信した。私は近所の、アマチュアではあるがオートバイのレースによく出場する友人の協力を得て、あれこれの日本の乗用車に乗ってみた。

それはどれが、将来のフォードTやフォルクスワーゲンに相当する大衆車になるかという見当をつけるためであった。私は、いろいろなクルマを乗り比べるうちに、乗用車は鉄道やバスやオートバイのような、たんなる輸送手段ではなく、動く私の部屋なのだと痛感した。