2016年2月13日土曜日

非自民政権の解体

もっとも、連立与党の新生党党首の小沢一郎は既に以前から、細川の意向を聞いていた。小沢側近の平野貞夫は、四月四日に、小沢から、細川首相が辞めるといっており、その後継政権で必要となる、連立与党の政策合意文書、統一会派について考えをまとめるように言われている。

その後、平野は会見前日の七日に、細川のもとに赴き、退陣表明の発表文などについて協議している(平野貞夫「小沢一郎との二十年」)。細川がこの当時いかに小沢を頼りにしていたかが、こうした経緯からもわかるであろう。人によっては、これを細川内閣の二重権力構造と呼んだ。筆者が辞任の場面から書き始めたのも、これによって連立政権の権力構造の一端が浮かび上がるからである(以降の政権についてもこの叙述を踏襲する)。

その後、細川内閣の与党は分裂含みで推移する。ほどなく細川が代表を務める日本新党は武村が率いるさきがけとの統一会派を解消し、さきがけは閣外協力に転じる。この背景には、九四年度予算の越年編成、国民福祉税構想などをめぐり、ことごとく対立した武村との確執があった。

細川は辞任表明の二ヶ月前の二月、武村の官房長官更迭を含む内閣改造を考えたが、結局、与党の社会党、さきがけの賛成を得られずに頓挫する。他方、武村と同様に、村山富市社会党委員長も、政権運営が独断専行だとして、小沢一郎新生党代表幹事、市川雄一公明党書記長ヘの批判を強めていた。

細川内閣の与党の新生党(小沢一郎代表幹事)、社会党(村山富市委員長)、日本新党(細川護煕代表)、公明党(石田幸四郎委員長)、民社党(大内啓吾委員長)、さきがけ(武村正義代表)、社民連(江田五月代表)は、こうして、細川辞任を契機に新生党、公明党、民社党などと、社会、さきがけの二つのグループに事実上分裂する。