2015年4月14日火曜日

成果主義的評価

いずれにせよ、経営陣が外国人に替わった瞬間から、そこで働く社員は発想を一八〇度転換する必要がある。日系であった時と同じことや似ていることを探し、それで安心するよりは、大きく異なっていること、全く違うことを素早く察知して、それらに対処することが外資系で働くサバイバル術の要諦である。給与や待遇が、年功主義から成果主義の方向に変わる。社員の年齢や家族構成で給与や待遇が違うことは、ゲマインシャフト(共同体)である日本企業では当たり前のことだ。しかし、ゲゼルシャフト(利害集団)的色彩が強い外資系企業では、それは許容されることではない。社員の俸給や処遇は、あくまで彼(彼女)の能力、資質、業績など生物学的要素以外で決められるのが鉄則である。

日本企業ではある一定年齢まで、同期人社組は横並びで昇進、昇格し、万が一給与が違うとすれば、それは家族構成が違うから、というのがごく普通だ。しかし、外資系企業では勤続年数が同じ社員が同給料であることはほとんどあり得ない。あるとしても全くの偶然に過ぎない。そもそも外資系企業では、日本企業でよくあるように互いにボーナスの金額を比べ合うことなどない。関心はあっても給与明細を見せ合って、互いのボーナス額から上司の評価を推し量るなどということは、よほどプライドのない社員以外はやらない。少しでも自信のある社員はそうした見せ合いに応じないだろうし、応じたとすればその社員は、見せ合いを求めた社員よりも多額のボーナスをもらっていることに確信があるからだろう。

ならば外資系の評価は全て成果主義か、というとそうでもない。そもそも成果というものを絶対的に評価する基準などないので、外資系における成果主義的評価といってもそれは評価者である直属の上司、さらにそのまた上の上司の主観に左右される。上司やそのまた上の上司もえこひいきとか、不公平とか言われたくないので、客観性を装った評価基準を設ける。多くの外資系ではこの基準がマニュアル化、文章化されているが、それでも主観的評価を糊塗するものでしかない。「こいつは使える、よくやってくれた」と往々にして外国人である上司が思ってくれれば、マルや二重マルがつき、そうでなければ三角やバツがっくだけだ。その社員に扶養家族が何人いようが、家に病人がいようが、評価には関係ない。

外資系に勤め先が変わって、それまで得ていた特別手当や家族手当がなくなったり減らされたとしても、それで不平を言うのは筋違いだ。「会社が給与を払い、地位を与えているのは社員であり、その家族や親族に対してではない」という前提が外資系企業には厳然として存在する。日本人や日本で採用された社員が、この前提から逃れることはできない(但し例外は常にある。高級幹部やエクスパットと呼ばれる本社採用の外国人が日本に派遣されてくる場合の処遇などはその最たるもの)。どうしても納得がゆかなければ、そうした処遇をしてくれる日本企業を探して転職するしかない。厳しいが、それが外資系の現実なのである。

株主(ほとんどの場合、海外本社)や本社幹部の意向が唯一絶対の基準となる「会社は誰のものか」という議論には限りがないが、多くの外資系では答えは単純である。「株主のものであり、それ以外の何ものでもない」がその答えだ。もちろん外資系企業でも社員や顧客などステークホルダー(利害関係者)のことは気にしており、それらに対する配慮は日本企業以上になされている。しかし「誰のものか」という質問に対しては、お客様のものとか、働く従業員のものといった答えが出てきようがない。尊重すべき対象であっても、所有者は株主しかいないのだ。