2015年1月17日土曜日

危うい法案が次々と成立する異常事態

だれも予期しなかった政変が突然起きたのは、東京で桜が一斉に開花したばかりの二〇〇〇年四月上旬のことであった。

小渕首相が同月二日未明、脳梗塞で緊急入院する異常事態が突発した。昏睡状態が続き、回復の見込みがまったく立たな。い状態に陥った。自民党は急進、森喜朗幹事長を後継総裁に選出、公明党に加えて、連立を離脱した自由党から分かれて結党したばかりの保守党と組んで、森氏が首班に指名された。同月五日、自公保三党連立による森政権が新たに発足した。

参院の過半数割れに苦しんだ小渕政権は、九九年一月に自由党と連立を組み、同年十月には公明党を連立に迎え入れた。党の内外で反発の強い公明党との連立によって、衆院で七割、参院で六割近くの議席を占める巨大与党が出現した。

この翼賛体制は霊験あらたかだった。九九年の通常国会で、米軍の軍事行動を自衛隊が後方支援する周辺事態法などガイドライン関連法、新国家主義の象徴といえる国旗(日の丸)・国歌(君が代)法、警官の盗聴を認める通信傍受法、国民背番号制を導入する改正住民基本台帳法などが相次いで成立。二〇〇〇年の通常国会でも、改正公職選挙法に続いて、給付を大幅に削減する年金制度改正法などがすいすいと成立してしまった。

だが、国会での多数派形成と、重要法案の順調な処理が、政権への評価につながらなかったところに、小渕政権の限界があった。政権の末期、内閣の支持率は急速に低下していた。

朝日新聞世論調査(二〇〇〇年二月二十三日付)では、「白自公連立政権を評価する」が二三パーセントと低レベルにとどまった。また、毎日新聞世論調査も「自自公連立政権を評価しない」が六八パーセントと、高い拒否率が続いていた。心ある国民が巨大与党の横暴に、心底から怒っている証拠だ。