2015年12月14日月曜日

訴訟を起こすということの覚悟とは

そのため、多くは依頼者自身の記憶をたぐって、「あの時どうだったかちょっと思い出してください」という話になります。昔のおぼろげな記憶でも、とにかくご本人にがんばってひっぱり出してきてもらい、複雑で細かな事実関係をなるべく分かりやすく整理して「陳述書」といった文書を作ります。

そうした作業を事前に集中してやるわけですが、それが訴訟の非常に重要なポイントになります。古い写真とか手紙などがあれば、それは宝物のような証拠ですから、そういうものも徹底的に探してもらいます。そういうものがないとか、捨ててしまっている人は、裁判で有利になることが難しいといえます。

つい先日も、証拠集めの作業を最初からかなりのペースでやったことがありました。ところがその依頼者は、「ものすごく疲れました。もうやめます」と言って途中で下りてしまいました。「少しやりすぎたかな」とも反省しましたが、微妙なケースだったので徹底的に洗っておく必要があったのです。

こうした難しい訴訟では、ご本人に余程ふんばってもらわないと、これから長く続くことになるかもしれない厳しい闘いをやりぬけません。訴訟は、長丁場も覚悟しなければなりません。「少々の苦痛は堪え忍ばなければ、裁判に勝つ資格はない」ということなのでしょう。

2015年11月14日土曜日

不良債権の巨額化

不良債権の巨額化に対処するため、銀行は九三年度から貸倒引当金の積み増しを積極化している。実際、九三年度の決算をみれば、都銀だけでも二・三兆円強もの償却金を計上している。そして、この規模の間接的償却額の積み増しは、二・四兆円弱の業務純益に匹敵するまでになっている。それにもかかわらず不良債権の処理を依然として進めざるをえないのは、償却のための貸倒引当金の積み増しを凌駕するペースで不良債権に付随する潜在的損失額が膨張しているためである。

そして、この窮境下で経常利益ペースでの欠損への転落を回避し何がしかのプラスの経常利益を確保するには、結局のところ多額の株式売却益を計上する以外にはない。だが、相当の規模での株式売却益を計上すると、まず第一にBIS規制の観点からみれば、株式含み益の減少を通じて自己資本(T2部分)を抑制させ、ひいては信用創造にブレーキをかけることになる。また第二に、株価水準が一定に維持されていると仮定してみても、多額の含み益の減少は不良債権問題に対する銀行の体力低下をもたらす。そして第三に、売却益の計上のために株式の売却がかなりの規模となれば、悪くすれば株価に下落圧力を与えかねない。

ところで、不良債権の巨額化と付随する潜在的コストの増大は、株価次第では銀行の経営基盤にも、大きな影響を与えかねない状況を生じさせている。都銀、長期信用銀行、信託銀行を合わせた主要二一行の実体的不良債権を三〇兆~四○兆円と仮定すると、共同債権買取機構に持ち込まれた債権の担保不動産に関する評価損率は、九四年春頃で六〇~七〇%にまで悪化している。

この評価損率を主要一一行の不良債権の評価計算に応用するならば、潜在的な元本評価損額は一八兆~二八兆円のレンジと試算できる。これに不良債権にかかおる金利未収計上分を機会損失として付け加える必要がある。これについては、たとえば金利を四%と置き、不良債権の処理を三年程度で済ますと想定すれば、この部分の損失額二・六兆~四・八兆円になる。すると、元本部分と金利部分と合わせた潜在的総損失額は二二兆上二三兆円と試算される。

2015年10月14日水曜日

官僚機構全体の権限

細川内閣の政治改革は「政界」の仕掛けを変えた。だが、その中味と結果は褒められたものではない。小選挙区制は国民の選択の幅を狭めたし、比例代表制の導入は各政党執行部の権力を強めた。政党助成金は、国民が政治献金によって強い支持を表明する効果を薄れさせた。しかもこれで、政治が金に左右されない清潔なものになったわけではない。政治資金規正法の網の目をくぐり抜けて来る少額の金が、日本の政界に甚大な影響力を持つようになっただけだ。最近の政界スキャンダル、KSD事件や鈴木宗男議員の問題がその典型である。

橋本首相が「火の玉になってやる」といった「六大改革」も、結果は行政の仕掛けをいくらか変えただけに終わった。社会保障改革は中途半端だったし、経済構造はほとんど手付かずだった。教育は「ゆとり」という名の怠惰をはびこらせる格好になったし、金融は悪しき先送りになってしまった。橋本総理が熱を入れた財政改革は、ただの引き締め政策(量的削減)となり、大不況をもたらした。

唯一、実効を上げた行政改革も、官僚機構全体の権限と人数の削減には切り込めなかった。つまり行政の仕掛けを変えただけで、官僚主導の「文化」を変えるにはならなかった。小渕内閣の改革は一歩踏み込んだ、といえるかも知れない。金融再生では平等(横並び)と安全(潰さな号の基準を超えて、市場による淘汰の原理を持ち込んだ。流通大手や建設会社を倒産するに任せたのも同じ意味である。

労働の流動化、企業の合併分割の推進、SPC(特定目的会社)やNPO(非営利団体)の制度化も同じ方向でのものであった。だが、その成果は小渕内閣の後までは持続しなかった。社会の体制と体質、国民の気質が変わらず、経済と企業の仕組みを改めたにとどまった、というべきだろう。

小泉総理大臣が提唱し推進する改革も、郵政事業や道路事業の仕組みを変更するのが精一杯だろう。あるいはそれすらできないのではないか、と危惧されている。どうしてこうも、改革は挫折するのか。あるいは実効性の乏しいものになるのか。政治家や官僚の抵抗が強いから、というのでは回答にならない。およそ改革に政治的抵抗がないはずがない。要は、それを押し切れるほどの勇気と世論の支持があるか否かである。

2015年9月14日月曜日

外資との大型合併

この構想を検討すべき理由に、いまひとつ、郵貯の「自主運用」問題の危険性がある。独立行政法人になったら、苦労して集めた金を大蔵省の縄張りの財政投融資のために使うのではなく、自分で運用するのは当たり前だ、これが財投改革だ、ということなのだろうが、これは危険な発想でもある。これまでのように予算案の審議の形でチェックを受けなくなる分、無責任な運用になる危険が高まるからである。自主運用とするなら、責任体制を確立し、その成果が第三者によって評価されるよう、国民への情報公開も徹底されなければならない。

民間では運用に失敗すれば、金融機関は倒産し、運用責任者は首になるという規律が働く。しかし、郵貯・簡易保険は、独立行政法人になるとはいえ、親方日の丸である。郵便ネットワークの政治力は、民営化の要求など一蹴したほど強大である。資金が非効率に(ときに政治的に)使われることのない保証がいる。それには郵貯機関を純粋銀行として効率的かつ安全な経営をしながら、僻地や社会的弱者へのサービスも提供するネ。トワークとするのが、国民の支持も得られ、かつ競争的な金融システムの中で存在理由を確立しうる道ではないだろうか。

ひとまず右のように、再編への道筋を整理したところで、相互に関係する二つの問題をあらためて考えてみたい。一つは、いうまでもなく外資との関係である。これまでにも数々の提携や資本参加の動きがあったことはすでに見たとおりだが、前章で述べたような国境を越えたダイナミックな再編の流れに、日本の金融機関、とくに大手・中堅の銀行、証券会社などがはたして無縁でいられるのかどうか。もし、大型の買収・合併劇が、日本の金融機関を巻き込んで行われるとすれば、それはどのような局面においてであろうか。

いうまでもなく外資は、きわめて厳しい予算制約のもとで効率的な投資の意思決定をする。高い株主資本利益率を要求されている以上、長期的見地と称して(実はどんぶり勘定で)海外金融機関を買収していた日本の銀行経営者とは基本的な発想が違う。したがって、米国の株高と日本の株安というチャンスにあっても、それがそのまま大型買収が加速することを意味するわけではない。

2015年8月19日水曜日

国連は中立を厳守すること

国連が発行しているPKOに関する広報資料にも、PKOを成功に導くためには、紛争当事者の同意や、敵対国同士あるいは一国内の当事者に対し、国連が中立を厳守すること、常任理事国を含む国際社会の幅広い支持があることなどの条件が欠かせない、とうたっている。だが、重要なことは、こうした経験則は、これまでの国連の試行錯誤を踏まえた目安に過ぎず、必ずしも絶対ではない、という点だ。PKOは、それぞれの紛争に対応した特殊な国連活動であり、共通して定式化できるものではない。コンゴ動乱で見たように、PKOが武力を行使する局面があり得たし、情勢次第では、それを容認することは今後もあり得る。これまで見てきたPKO原則は、主として冷戦下で積み重ねられてきた実践例の要約に過ぎず、冷戦後にもその原則が妥当するという保証はない。

例えば、実際に湾岸戦争後に展開された国連イラク・クウェート監視団(UNIKOM)の事例を見てみよう。これは一九九一年四月九日、非武装地帯にいる軍隊の撤退や交通の監視などを任務として安保理か設置を決めたものだ。監視団の性格や中立性などは従来のPKOと同じだが、この設置を定めた安保理決議第六八九号は、前文で、「憲章第七章のもとで行動する」と明記している。つまり、従来の「第六章半」というPKOの位置づけではなく、「強制措置」を定めた第七章に拠ることを明確にしたわけである。米国など当時の安保理常任理事国の担当者の見解は、「かりにイラクが受け入れを拒否しても、この前文を根拠に、UNIKOMは展開できる」という立場だった。

2015年7月15日水曜日

二一世紀の日本の社会保障の再構築

どれぐらいの医師数が妥当なのかというのは実はよくわからない。あまり医師数がふえると、いろいろ弊害も出てくるが、そうかといって、医師不足といわれるのも困る。医師数の将来予測というのは、前提の置き方によってどうにでも数字の動くものである。現在の医師の需給状況をみても、「医師は余りはじめた」とも「医師はいぜん不足気味である」ともいえるし、どちらの数字を出すこともできる。

しかし、いくつかの予測数値を見てみると、だいたい二〇〇〇年ごろにはいちおう充足し、二〇一〇年ごろにはかなり余るとみられる(歯科医は現在すでに余りはじめている)。このようにみると国民医療総合政策会議(浅田敏雄座長)が一九九六年一一月中旬に出した中間報告にもある「医学部入学定員の削減強化と保険医への定年制の導入」などの施策はこのさい行なうべきであろう。

また同報告書では、現在の病床数は医療法に基づくニ○万床より五万床多いと指摘、介護保険制度の導入で社会的入院が減るとみられるので病床削減の具体策を検討するよう主張している。この中間報告の建議は、これまでの審議会のペーパーにくらべて前向きではあるが、もうひとつの側面である入院患者の平均在院日数を短縮すれば、当然病床数も減るし、そうなれば医師も大幅に余るということにもなりかねない。

現在、社会的に問題になっている二一世紀の日本の社会保障の再構築は、これまでのところ、国民の自己負担がふえる話ばかりで、いわゆる″いい話”がない。 医師の削減といっても、すぐには効果の上がる方法はない。いまから少しずつ(一〇パーセントぐらい)医学部定員を削減していく以外にはいい方法は考えつかない。そうすると、どうしてもタイムラグのようなものが出る。それなら、いっそのこと、すこし余った医師を大病院の外来に配置して「三時間・三分」(三時間待って診療時間は三分といわれる)を少し解消するようなことを考えてみてはどうだろうか。

2015年6月13日土曜日

最先端の現場を支えていたのは請負従業員だった

「今は、何よりも職業訓練学校に通いたいのに、応募者が殺到して枠がない可能性もある。自分でも調べたい。こんなことやっている場合じゃない」それから、三週間後。神奈川県で開かれた、職業訓練学校の説明会に、西本さんも参加していた。会場は、派遣を打ち切られた人々など失業者で満員だ。介護福祉などさまざまな分野で、希望者が殺到していた。職業訓練学校では六ヵ月間、専門の講師のもとで、さまざまな職業の基礎的な技術を学ぶことができる。訓練費用は原則無料で、学校に通う間は生活費の融資を受けることも可能だ。

西本さんが説明を聞いた仕事は、住宅の内装だった。担当者の説明では、訓練学校を卒業しても、最初の三年間は職人のもとで見習いをしなければならない。給料はて一万~一三万円が相場だという。厳しい実情を聞いた西本さんは「これくらいの給料で、アパートを借りるとカツカツですよね」と、不安をロにした。「学校を卒業しても、やっていけないと思うならば、止めた方がいいと思います。やはり、六ヵ月、一年という期間は貴重だと思いますので」担当者からは、生半可な気持ちで仕事はできないと、諭されてしまった。

しばらく経って、再び西本さんを訪ねた。西本さんは、迷い続けていた。職業訓練学校で技術は身につけたいが、今日を生きるためのお金も稼がねばならない。しかも、今は貯金がゼロ。退寮を迫られているなかで、もう残された時間はない。西本さんに、最後に派遣でもう一度、働きたいか尋ねた。「もう派遣で働きたくないです。今回これだけ社会問題にもなって揉めたら、(派遣労働は)もっと効率のいい形になるでしょうね。企業側は、進化していくでしょうけど、うちら労働者はついていけないですよ」西本さんは寂しそうに笑っていた。

東京・新宿に本社を構える日本マニュファクチャリングサービス。中堅の人材請負会社で、約二五〇のメーカーに対し、四〇〇〇人を超える従業員を生産現場に送り出している。社長の小野文明さん(四九歳)は九年前、請負会社を辞めて独立した。人材の配分は派遣四割、請負六割だが、小野さんは派遣の比率をゼロにすることを、目標にしている。何かと弊害の多い派遣労働ではなく、請負を正しく実践することが、メーカーにとっても、人材会社にとっても、そして従業員たちにも、ペストな選択であると考えているからだ。

小野さんは「派遣ビジネス、労働者供給事業ではない、モノ作りを請負で実戦できる集団を目指す」と従業員たちに訴えた。業界の裏も表も知り尽くしている小野さんは言う。「派遣社員も請負従業員も、非正規と呼ばれているが、僕は非正規という、その言葉自体が大嫌い。僕らにとっては大事な社員です。メーカーとは、契約上請負でやっている仕事なのです」小野さんは、これまでベールに包まれた請負現場の実情について、初めて取材に応じてくれた。ガイア取材班は、関東圏にある工場に出向いた。そこは、ある大手半導体メーカーの工場だった。

2015年5月19日火曜日

収益重視の経営にシフトする

アメリカのマネーセンターバンク銀行と日本の都銀、長信銀、信託銀行の総資産に対する当期利益率の推移を示している。ジャパンマネー全盛のバブル期も含めて、日本の銀行の利益率がアメリカのそれよりはるかに低いことが一目でわかる。邦銀は低い自己資本比率で、薄利多売型経営をおこなってきたのである。だが今や銀行も、他の企業と同じように、収益重視の経営を掲げて、大幅なリストラを進めている。支店の大幅削減と人員の削減という、戦後銀行界が経験しなかった事態が進行しているのである。

都銀11行は93年度から3年間で、15万人ほどの従業員総数の約7%にあたる1万人を削減する計画を実行しつつある。それも新規採用の抑制や出向にとどまらず、退職金割増制度導入などによる、女子行員を筆頭とする早期退職促進を含む厳しいものである。都銀全体で約3500店ある店舗数(出張所を含む)も、すでに93年度に、その約3%にあたる101店舗が閉鎖されている。

銀行だけではない。株価の急落・低迷に直撃された証券業界でも、全従業員数は91年6月末のピーク時と比べて、93年6月末では、なんと約16%も減少し、14万人台を割り込み、バブル期以前の状態に近づきつつある。支店数もピーク時の2576ヵ所から約8%も減少し、営業所も、27%の減少となっている。従業員数については、むしろ、人が減りすぎて人員合理化の「量から質への転換」・・・つまり管理部門から営業部門への配置転換などに取り組まなければならないほどである。

こうした厳しいリストラは、中小金融機関では合併による再編という形で進んでいる。信用金庫の合併は80年代後半には2件にすぎなかったが、90年以降で26の信金が消滅、93年度だけでも7信金が消滅し、94年3月末現在では428信金となっている。信用組合では92、93両年度で14信組が消滅し、同時点で383信組となった。

2015年4月14日火曜日

成果主義的評価

いずれにせよ、経営陣が外国人に替わった瞬間から、そこで働く社員は発想を一八〇度転換する必要がある。日系であった時と同じことや似ていることを探し、それで安心するよりは、大きく異なっていること、全く違うことを素早く察知して、それらに対処することが外資系で働くサバイバル術の要諦である。給与や待遇が、年功主義から成果主義の方向に変わる。社員の年齢や家族構成で給与や待遇が違うことは、ゲマインシャフト(共同体)である日本企業では当たり前のことだ。しかし、ゲゼルシャフト(利害集団)的色彩が強い外資系企業では、それは許容されることではない。社員の俸給や処遇は、あくまで彼(彼女)の能力、資質、業績など生物学的要素以外で決められるのが鉄則である。

日本企業ではある一定年齢まで、同期人社組は横並びで昇進、昇格し、万が一給与が違うとすれば、それは家族構成が違うから、というのがごく普通だ。しかし、外資系企業では勤続年数が同じ社員が同給料であることはほとんどあり得ない。あるとしても全くの偶然に過ぎない。そもそも外資系企業では、日本企業でよくあるように互いにボーナスの金額を比べ合うことなどない。関心はあっても給与明細を見せ合って、互いのボーナス額から上司の評価を推し量るなどということは、よほどプライドのない社員以外はやらない。少しでも自信のある社員はそうした見せ合いに応じないだろうし、応じたとすればその社員は、見せ合いを求めた社員よりも多額のボーナスをもらっていることに確信があるからだろう。

ならば外資系の評価は全て成果主義か、というとそうでもない。そもそも成果というものを絶対的に評価する基準などないので、外資系における成果主義的評価といってもそれは評価者である直属の上司、さらにそのまた上の上司の主観に左右される。上司やそのまた上の上司もえこひいきとか、不公平とか言われたくないので、客観性を装った評価基準を設ける。多くの外資系ではこの基準がマニュアル化、文章化されているが、それでも主観的評価を糊塗するものでしかない。「こいつは使える、よくやってくれた」と往々にして外国人である上司が思ってくれれば、マルや二重マルがつき、そうでなければ三角やバツがっくだけだ。その社員に扶養家族が何人いようが、家に病人がいようが、評価には関係ない。

外資系に勤め先が変わって、それまで得ていた特別手当や家族手当がなくなったり減らされたとしても、それで不平を言うのは筋違いだ。「会社が給与を払い、地位を与えているのは社員であり、その家族や親族に対してではない」という前提が外資系企業には厳然として存在する。日本人や日本で採用された社員が、この前提から逃れることはできない(但し例外は常にある。高級幹部やエクスパットと呼ばれる本社採用の外国人が日本に派遣されてくる場合の処遇などはその最たるもの)。どうしても納得がゆかなければ、そうした処遇をしてくれる日本企業を探して転職するしかない。厳しいが、それが外資系の現実なのである。

株主(ほとんどの場合、海外本社)や本社幹部の意向が唯一絶対の基準となる「会社は誰のものか」という議論には限りがないが、多くの外資系では答えは単純である。「株主のものであり、それ以外の何ものでもない」がその答えだ。もちろん外資系企業でも社員や顧客などステークホルダー(利害関係者)のことは気にしており、それらに対する配慮は日本企業以上になされている。しかし「誰のものか」という質問に対しては、お客様のものとか、働く従業員のものといった答えが出てきようがない。尊重すべき対象であっても、所有者は株主しかいないのだ。

2015年3月14日土曜日

難民の祖国帰還

その難民のうちのかなり多数が、近年、祖国ハンガリーに帰り始めた。このことは、国外にいた人々が、民主化への改革にとりくみ始めた政府に、大きな期待を寄せるようになったからである。また、欧米諸国などで定住を認められたものの、希望するような就職先を容易に見つけられなかったことも、帰国を促す原因の一つとなった。欧米諸国では、一般的に失業者が増え、このことが、排外主義の感情を一部住民の間にかきたて始めていた。地域社会のこのような動揺は、難民の職探しにも重大な影響を及ぼしたのである。

アジアに目を向けてみると、ラオスでも、本国に戻る者が増えている。従来から難民がすこしずつ戻っていたが、一九八九年の一年間に、一五〇〇人もタイの難民キャンプから本国に帰国した。これで帰国者の人数は、累計では五〇〇〇人を越えた。タイ国内に留まっている七万人のラオス難民のなかでも、本国帰国への関心を口に出す者が次第に多くなっている。ラオス政府は一部自由化をとりいれた経済改革に着手し、住民に対する締めっけを緩めるようになった。このような政策転換の効果が住民生活レベルにまで及んで、国外の難民にも知れ渡るようになるにつれ、難民の祖国帰還に拍車がかかったのである。

さらに、アフリカでは、南アフリカによる人種隔離政策(アパルトヘイト)の強圧のもとに、長い間苦しめられていたナミビアが一九九〇年三月に独立して以来数カ月間に、四万人の難民が帰国したのである。難民になることは、不幸なことである。しかも、その不幸は、世代を越えてその尾を引く。敗戦直後の混乱期、日本の植民的支配地や軍事的支配地にとり残され、迷い迷って転々とした日本人も、広い意味では難民であった。その子どもであった人々が、「残留孤児」として、今もなお、日本にいるはずの肉親を探し続けている。

難民状態は、できるだけ早く解消されなければならない。その解消方法として、難民が最初に到達した国で定住を認めてもらうか、または最初の到達国から第三国に移住し、そこでの定住を認めてもらって、数年後には、定住国の国籍を取得するか、または難民自らの意思によって祖国に帰るか、という三つの道がある。ただし、かつては、祖国に帰ることこそ究極的な道である、と考えられた。しかし実際には、祖国に帰ることを自ら希望する難民は増えなかった。そのため、大量の難民が各国に滞留するようになった。そこで、増え続ける滞留難民をアメリカなどが大量に引き取ってくれることを頼りにして、第三国定住を促進することが、重視されるようになった。

ところが、今あらためて、祖国帰還が掴際社会で注目されている。従来、たくさんの難民の定住受け入れを認めていたアメリカ、カナダなどの国が、その受け入れ枠を狭めるようになったため、その影響で、東南アジア諸国など多くの国々では、いずれからも引き取られない難民の数がふくれあかっている。そこで、難民の祖国帰還が、いっそう注目されているのである。しかし、祖国帰還が実現するには、本国に一定の条件が生まれていなければならない。ハンガリー難民やラオス難民、ナミビア難民の祖国帰還は、このことを示している。復帰実現に欠かせない条件は、難民の流出原因となっていた事情がもはや解消されたのかどうか、という点に、根本的にかかおる。

2015年2月14日土曜日

中国との 間で紛争の火種を抱える近隣諸国

米国防総省は、九五年二月に発表した「米国の東アジア地域に関する安全保障戦略」(通称ナイ・レポート)の中で、「中国は核兵器保有国であると同時に、地域第一級の軍事大国であり、しかも、国連安全保障理事会の常任理事国の座にある世界的な強国」と位置づけ、いち早く中国の軍事大国化に警戒を呼びかけた。

中国の知識人たちは、こうした「中国脅威論」に対して、「近代史を見れば、中国は外国から侵略されたことはあっても、周辺諸国を侵略したことはない」と、口をそろえて反論する。

だが、建国以来の中国の歴史を振り返ると、いろいろな理由があったにせよ、朝鮮戦争、旧ソ連やインドとの国境紛争、中越戦争と交戦歴にはこと欠かない。

しかも、中国は九二年二月、「領海および接続水域法」を公布、日本が固有の領土と主張する尖閣諸島やフィリピン、ベトナムなど近隣諸国と領有権を争っている南シナ海の南沙・西沙諸島を一方的に中国領と明記。

南沙諸島では活動拠点を強化する一方、西沙諸島の永興島には飛行場を建設した。こうした大国主義的な行動と軍事力の強化が相まって、とりわけ中国との間で紛争の火種を抱える近隣諸国は、心中穏やかならぬものを感じている。

2015年1月17日土曜日

危うい法案が次々と成立する異常事態

だれも予期しなかった政変が突然起きたのは、東京で桜が一斉に開花したばかりの二〇〇〇年四月上旬のことであった。

小渕首相が同月二日未明、脳梗塞で緊急入院する異常事態が突発した。昏睡状態が続き、回復の見込みがまったく立たな。い状態に陥った。自民党は急進、森喜朗幹事長を後継総裁に選出、公明党に加えて、連立を離脱した自由党から分かれて結党したばかりの保守党と組んで、森氏が首班に指名された。同月五日、自公保三党連立による森政権が新たに発足した。

参院の過半数割れに苦しんだ小渕政権は、九九年一月に自由党と連立を組み、同年十月には公明党を連立に迎え入れた。党の内外で反発の強い公明党との連立によって、衆院で七割、参院で六割近くの議席を占める巨大与党が出現した。

この翼賛体制は霊験あらたかだった。九九年の通常国会で、米軍の軍事行動を自衛隊が後方支援する周辺事態法などガイドライン関連法、新国家主義の象徴といえる国旗(日の丸)・国歌(君が代)法、警官の盗聴を認める通信傍受法、国民背番号制を導入する改正住民基本台帳法などが相次いで成立。二〇〇〇年の通常国会でも、改正公職選挙法に続いて、給付を大幅に削減する年金制度改正法などがすいすいと成立してしまった。

だが、国会での多数派形成と、重要法案の順調な処理が、政権への評価につながらなかったところに、小渕政権の限界があった。政権の末期、内閣の支持率は急速に低下していた。

朝日新聞世論調査(二〇〇〇年二月二十三日付)では、「白自公連立政権を評価する」が二三パーセントと低レベルにとどまった。また、毎日新聞世論調査も「自自公連立政権を評価しない」が六八パーセントと、高い拒否率が続いていた。心ある国民が巨大与党の横暴に、心底から怒っている証拠だ。