2014年8月19日火曜日

交通犯罪はどのように処理されるのか

私たちはこのような事態に。いわば不感症になってしまっているのではないでしょうか。一人の人が生命を失うという交通事故は、新聞にも載りません。何台もの車が巻き込まれ、何人もの人が命を失うような事故でないと新聞の記事にはなりません。私たちは自動車事故に慣れきってしまっているのです。年間一万人を超える死者を失われた人間の命の重さとして受け止めるのではなく。単なる統計上の数字としてしか捉えていないのです。事故に慣れてしまっているのです。人の死に慣れきってしまっているのです。このような状態は、事故の多発よりも、もっと異常な事態ではないのでしょうか。

いま車を運転していたある人が、スピードを出しすぎてハンドルを取られ、歩道を歩いていた他人を撥ねとばし、自分自身も電柱に激突し、ともに命を失ったとします。通常、これらの人はどちらも「交通事故で亡くなった」と言われますし、統計の上では「死者二」として同列に記録されます。両者の間には何の違いもありません。しかし、この事故による二人の死は全く異なったものなのです。一方の死はいわば自業自得かもしれません。しかし、もう一方の死は他殺であり殺人なのです。一人は加害者であり。一人は被害者なのです。これは交通事故ではなく交通犯罪なのです。私が、戦死という言葉になぞらえて「交通死」と呼ぶのは、この被害者の死なのです。

交通事故をこのように分けて考えることが、絶対に必要だと私は思います。区別をあいまいにしておくと、一方では事故の持つ犯罪性が隠蔽され、被害者は運が悪かったにすぎないということになり、他方では加害者の責任があいまいになり、交通事故があたかも不可抗力な自然現象であるかのように受け取られかねないからです。交通犯罪が許容されかねないからです。「交通犯罪」というのは『犯罪白書』で用いられている言葉なのですが、この『白書』によれば交通関係の業務上過失致死(重過失致死を含む)の疑いで検挙された人は一九九五年では八六九七人です。

またこの年に交通関係の業務上過失致死傷の疑いで検挙された人は六七万七〇〇〇人にものぼり、刑法犯全体の六九・八%を占めています(ちなみに第二位は窃盗犯で一五万九〇〇〇人、全体のでハ・四%)。すなわち、交通事故による死者の大部分は、その生命を失ったのではなく奪われたのです。また刑法犯の一〇人に七人は交通事故を起こした人なのです。この数字は私たちの住んでいる社会がたんに「くるま社会」であり。私たちが「交通戦争」の真っ只中にいるというだけではなく、私たちが「交通犯罪の社会」に住んでいることを示しています。

ところで、私たちの社会で交通犯罪がどのように処理されているのかを、あなたはご存じですか。交通法規を無視することで他人をあやめた人がどのように裁かれ、命を奪われた人がどのように扱われているかをご存じですか。新聞には事故の起こったことさえほとんど書かれていないのですから、それがどのように処理され。どのように決着づけられたかが記事になることはまずありません。しかし、私たちの住んでいる社会が交通犯罪に溢れた社会である以上、私たちはそれがどのように処理されているのかを知らなければなりません。そのことがとりもなおさず、私たちが住んでいる社会の一面を知ることになるからです。