2014年4月17日木曜日

日本的経営は正しかった

このことを考えると、ひとたび「『ヒラの人たち』の反乱」が起これば、その影響がきわめて広範なことは、容易に推察がつくだろう。もっとも、「反乱」といっても、実際に暴力沙汰が起こって、流血の惨事を招くようなことは、そう多くはないかもしれない。

しかし、何よりもまず、企業内で労使関係が悪化し、労使間の雰囲気は険悪化するだろう。そういう雰囲気の下では、企業の生産性は低下し、品質のいい製品を低コストでつくることなど、とうていおぼつかない。さらには、社会の随所で、人びとはきちんと働かなくなり、諸サービスのレベルは目に見えて低下する。それがさらには、争いごとの増加、犯罪の多発、治安の悪化等々にまで及ぶ可能性も、大いにある。

その変化を一語で表現すれば、いささか曖昧だが、「社会のレベル」が下がるとでも言うしか、他に言いようがない。そういう社会は、明らかに「よき社会」の名には値しないだろう。そうした変化が、たとえばGNP統計にどのように表われるかはともかくとして(目立った形では、すぐには数字には表われないかもしれないが)、日々暮らしていくうえで、不愉快なことが多くなることだけは確実である。

歴史の前例を見ると、繁栄はけっして永遠にはつづかず、やがては衰退過程に移行する。そういう衰退過程では、こうした「社会のレベル」の低下のようなことが、必ず起こるのではないだろうか。ここで注目を要するのは、繁栄のときに社会が到達したレベルが、そのままには維持できず、徐々に低下していくことである。

しかし、いちばん重要なのは、「規律」がなくなり、「レベル」が低下するといっても、それはただ、「失業と飢えの恐怖」という「脅し」が効かなくなっただけのことだ、という点である。「脅し」によってしか「規律」が維持できないというのは、けっして上等な方法ではなく、考えてみれば、まことにお粗末な話でしかない。