2013年8月28日水曜日

人口流出を加速させただけの道路

一九七〇年代にはじめて沖縄にやってきたときのことだ。島を案内してくれた方から、「海中道路を渡って宮城島に行きませんか」と言われたときは、それはもうびっくりした。「海中道路」という言葉から、何やら海の中を潜っていくような未来都市を想像してわくわくしたものだ。ところが、行ってみたら何のことはない。海の中にできた堤防のようなもので、あのときほどガッカリしたことはなかった。全長四・七キロの海中道路ができたのは、日本に復帰する前年の七一年のことだ。目的は、ガルフ社が宮城島の手前にある平安座島に石油備蓄基地をつくるためである。海の中に道路をつくるのだから、きっと難工事だったに違いないと思っていたら、実際は遠浅の海岸を埋め立てただけだから、わずか一ヵ月ちょっとで完成したという。

平安座島や宮城島は、この海中道路を地元復興のシンボルにしようとしたようだが、金武湾の潮流が変化したり、原油流出事故によって海洋が汚染されたりで、結果的に漁場が失われただけで何も得るところはなかった。そのうえ、若い人たちは海中道路を通って本島に流れ、島はますます過疎になっていった。道路や橋をつくっても、離島や僻地の人口流出を防ぎえないことは、田中角栄の日本列島改造でも明らかだ。角栄は、冬になると雪に埋もれる越後を何とかしようと、人も羨むような立派な道路をつくって交通網を整備した。道路をよくすれば都会に出る必要もなく、また出稼ぎに行った人たちも戻ってくると考えたのだろう。

ところが期待に反して、住民はよくなった道路を利用してどんどん都会に出て行った。戻りやすくなっだのではなく、出やすくなったのであり、道路は人口流出を加速しただけであった。過去に、日本列島を改造すればするほど、逆に地方の過疎化が進むという矛盾がはっきりしていたにもかかわらず、沖縄は同じ間違いを繰り返してきたのである。たとえば瀬底島。かつては、目の前に本部半島が見えるのに、風が強くなると渡れない島だった。シマチャビ(離島苦)の最大の悩みは交通であり、橋さえできれば活気を取り戻し、若者も島にとどまるに違いない、と考えたあたりは全国の離島に共通していた。島の住民は行政に訴え、そして五七億円の費用をかけて、八五年に全長七六二メートルの瀬底大橋が完成した。

島は、これでシマチャビから解放されると歓喜したが、案に相違してわけのわからない観光客がやってきてはゴミを散らかした。ゴルフ場ができ、それが転売されてホテルになった。誰のものともわからない別荘ができ、夏にもなれば、海岸は夜ごと「子供に見せられない」ような場面が展開することとなった。橋ができても若者は戻らず、現在まで瀬底島の人口はほとんど変わっていない。離島苦の本当の問題は交通ではなく、仕事がないこと。これは〇五年に完成した古宇利大橋も同じだった。「台風などで交通手段が使えなくなると孤立化し、急病人が出たら生死に関わる。橋ができれば緊急車両の通行が可能になり、産業も活性化して、島を離れた人も戻ってくるはずだ」

古宇利島の住民全員の意志かどうかわからないが、太っ腹の行政はそれに応え、島の直径にほぼ等しい全長一九六〇メートルの橋をかけて沖縄本島と陸続きにした。絵はがきにもなったこの橋は、いまや観光名所になっている。ちなみにこの橋の総工費は二七〇億円。古宇利島の人口は三五〇人ほどだから、一人あたり実に七七〇〇万円余りがつぎ込まれたことになる。沖縄で巨大な離島架橋を次々と建設していった理由について、ある建設業者はこんなことを言った。「道路に予算を使うのがむずかしくなったため、巨大な橋の建設に力を入れはじめたのでしょう。一時は久高島にまで橋を架ける計画もあったそうです」この古宇利大橋ができて離島苦はどうなったのか。あるとき那覇から名護に向かう長距離バスに乗ったら、偶然にも古宇利島に帰るオジイがいたので、つい隣に座らせてもらった。