2013年3月30日土曜日

駆け出し時代のこと

ニコンS2はフィルムをレバーで巻き上げる新しい方式を取り入れていて、これを持っていた学生はさかんに速写を自慢していましたが、これに対抗してライカ派は、右手人さし指の横腹で巻き上げノブを、ワンストロークで手前に引くことで速さを競っていました。ライカを買うためのお金は、東京・中野の写真屋さんに住み込みで働いて得たものでした。学校から帰って夕食をすますと暗室に入り、親父さんが露光した印画紙を現像するのです。写真館は中野駅近くの繁華街にあり、昼間そこで撮影したフィルムを親父さんが写真館とは別にあった近くの自宅に持ち帰って現像し、それを夜、プリントするのです。定着の終わった印画紙は、暗室が狭いため、風呂場で水洗をしなければなりませんでした。

若いお嬢さんが三人いて、誰かが入浴中のときは外から声をかけます。風呂場も狭いので湯船に漬かってもらい、「いいわよ」と許可が出たところで、目を伏せたまま印画紙の入ったバットを持って中に入り、水洗をセットします。それが終わると同じ目線のままで外に出ます。とても気持ちのよい明るい家庭で、ご飯もお腹いっぱい食べさせてくれました。いちばん下の娘さんはまだ中学生でしたが、当時でいうファニーフェイスの可愛い顔つきで、やっと手に入れたライカⅢaのエルマーの標準レンズで何回もモデルになってもらいました。

大学生になった昭和三十一年は。、前年の神武景気のさらに上をゆく高天原景気、経済白書が「もはや戦後ではない」と宣言した年でしたが、就職の年はナベ底不況が音もなく近づいていた頃で、近年いわれる就職氷河期とそっくりの状況でした。運よく出版社に就職が決まり、昭和三十三年からスタッフカメラマンの第一歩を踏み出したわけですが、驚いたことに、会社には大判の6×6の共用カメラはあったものの、35ミリカメラは自前でした。いくら見習い期間とはいえ、二十年以上前のライカmaでは雑誌の仕事をする記は機動力がなさすぎ、さすがに途方にくれたものです。

部長はニコンSPを使っていたし、先輩の一人はキヤノンvTを持っていましたが、これも自前だといいます。部長が留守のときに先輩と部長のロッカーからニコンSPを持ち出し、二人でファインダーをのぞいたり、レンズ交換をしたり、撫で回したりしたものです。手に伝わってくる金属の感触や、心地よい重量感、特にスローシャッターの走る音をカメラに耳をつけて聞いていると、鳥肌が立ってきたものでした。

初任給は一万二千円。ニコンSPは50ミリ標準レンズつきで定価九万八千円。給料の八倍以上でした。見かねた部長が会社とかけ合うてお金を借りてくれ、月々三千円の月賦でニコンSPを手に入れたときは、有頂天になったものです。いちばん嬉しかったのは、ファインダーは近距離から無限大まで、写る範囲を誤差なく示し、巻き上げレバーによる速写、クランクでの迅速な巻き戻し、フィルム交換も簡単、そして何よりシャッター音の小さかったことでした。

当時のカメラのシャッター音は一般にとても大きく、取材先の作家から「鉄砲で撃たれてるような気持ちだよ」といわれたことがあったほどです。街でスナップを撮っても、音が大きいので二枚目を切るときは、ほとんど気づかれてしまいます。SPのシャッター音は国産カメラの中ではもっとも小さく、これで写真を撮っていると、自分が透明人間に近づいたような気がしたものです。